幕末用語集

尊皇攘夷 水戸学 公武合体 戊午の密勅 安政の大獄
池田屋事件 禁門の変 寺田屋事件 大政奉還 王政復古

尊王攘夷

「天皇を尊び、夷(い=外国人)を攘(はら)う」の意。

「尊王(尊皇)」は天皇を中心とした権力の統一国家のこと。しかし、実情は幕藩体制を否定した統一国家をめざしていたのではなく、幕藩体制強化のために天皇の存在を利用したにすぎない。この頃には、天皇とは単に祭祀を執り行うだけの存在であり、朝廷に対する人々の畏敬の念は薄れていた。

「攘夷」とは、外国人排斥思想のことであるが、日本よりも格段に軍事及びその他技術力の上回る外国勢を目の当たりにし、この排除など不可能であることを思い知らされることになる。

尊王論も攘夷論も、ともに封建思想であり、江戸時代を通じて存在していたが、水戸藩で生まれた”水戸学”という思想は朱子学の日本版とも言えるもので尊王論と攘夷論が融合した尊王攘夷論は水戸藩の思想家、藤田東湖(弘道館記、1838)によって最初に唱えられ、存在意義を失いかけていた武士や国を憂う者たちに広く支持されるようになった。

水戸で生まれた「尊王攘夷」という言葉の意味するところは「外国勢力に対抗できるように幕藩体制を強化しよう!」というものだった。

1853年にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが国書を持って来日し通商を求めた。外国との条約締結を巡り幕府では朝廷に勅許(天皇のお許し)を求めるべきであるとする意見が出され、鎖国政策を維持するか、開国するかにあたり朝廷の判断を仰ぐ事となった。

幕府では井伊直弼が大老に就任し、日米修好通商条約の締結、紀伊藩の徳川慶福(徳川家茂)を将軍後継に決定して将軍継嗣問題の解決を図るなど朝廷の意向を無視した強硬政治を行った。勅許の無いまま、結ばれたこの条約は不平等条約だった。金の流出や物価高騰など経済にマイナスの影響が現れて日本人を苦しめ、幕府に対する不平、不満を増大させた。

公武合体を求める孝明天皇は水戸藩に対して戊午の密勅を下す。これに対して井伊は一橋派や尊攘派の弾圧を行い(安政の大獄)、万延元年(1860年)には高橋多一郎、金子孫二郎、関鉄之助ら、水戸藩激派脱藩浪士によって井伊が暗殺される桜田門外の変が起こる。

尊皇攘夷運動の支柱である水戸学には朝廷権威により幕府専制を抑える思想があり、井伊暗殺で幕府の弾圧がゆるむと全国的に改めて尊皇攘夷の声が高まり主に諸藩の下級武士を中心とする尊攘派の活動が激化した。

この頃から本来の”尊皇攘夷”は”倒幕”と結びついていく事になる。。「朝廷より武権を委任された幕府が征夷攘夷の役目を果たさず、勅命に背いた幕府は討伐しなければならない」、という思想である。

薩摩藩(九州系)尊攘派

文久二年(1862)薩摩藩主・茂久の実父、島津久光が兵を率いて上京すると有志たちは、これに乗じて尊王攘夷から倒幕に進む旗を上げようと、行列に前後して京都に集った。久光に討幕の意思は無く、有志の行動を嫌って討手を差し向け有馬新七らが犠牲になる伏見の寺田屋事件を引き起こした。これによって薩摩系尊攘派は集団としての力が衰えた。

久光の江戸への参勤途中の上京は彼自身の売名行為によるものと思われる。しかし、この行為が幕末動乱の起爆剤となっていく。江戸からの帰途、行列を横切った英国人を殺傷した生麦事件も引き起こした。

土佐藩尊攘派

土佐藩では土佐勤王党が親幕派の参政吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に切り替えることに成功した。しかし安政の大獄で失脚していた前藩主、山内容堂が実権を回復し”八・一八の政変”後、土佐勤王党を弾圧し党首、武市半平太以下多数が投獄、処断され壊滅した。(詳しくは土佐藩と山内容堂)

長州藩尊攘派

吉田松陰門下の久坂玄瑞らは自藩重臣の長井を失脚させ、藩論を尊王攘夷へ切り替えさせ、京都では土佐尊攘派とともに”天誅”と称して幕府よりの公卿侍や町役人を暗殺し、その圧力で朝廷内に尊攘激派公卿の発言力を増大させた。三条実美ら激派公卿は幕府に対し攘夷を約束させ、実行期限の回答を迫り五月十日という日限を切らせることに成功した。

文久三年(1863)五月十日から長州では関門海峡を通る外国船に砲撃を加え始めた。これは幕府が対外的には条約を締結し対内的には攘夷を約束するという矛盾を生じさせ、幕府を窮地に追い込む作戦だった。

攘夷実行で気勢を上げた尊攘激派は次の手段として「攘夷親征」を考え出した。天皇が伊勢に行幸して自ら攘夷する勢いを示し全国の有志を奮い立たせ、その力で幕府を討つという戦略である。その先発隊として文久三年(1863)八月十七日、公卿の中山忠光を擁する「天誅組」が大和に挙兵したが、翌八月十八日、京都では天皇の真意が”攘夷ではあるけれど攘夷討幕ではない”ことを手掛かりに薩摩藩と会津藩が手を組み尊攘激派を追放するクーデターが起こった(八月十八日の政変)。

この政変のため後続部隊は現れず天誅組は討伐隊に追われ壊滅する。
土佐の吉村虎太郎、備前の藤本鉄石らリーダーは皆戦死した。

翌元治元年(1864)六月、三条の池田屋で京都回復策を協議していた尊攘激派有志は新選組に襲撃され多数の死傷者を出した(池田屋事件)。この事件が引き金となって長州軍と尊攘激派浪士が京都に侵入する禁門の変(蛤御門の変)が起こる。

長州軍は幕府、諸藩連合軍に退けられ久坂玄瑞は自刃。これにより尊攘激派は事実上壊滅した。

攘夷の変節

外国連合国との「下関戦争」を経験した長州藩、「薩英戦争」を経験した薩摩藩は、本来の外国人排斥運動としての攘夷をひそかに棄て、それを偽装しつつ攘夷を討幕に利用した。尊王攘夷は単にスローガンであり、薩長中枢の”尊王攘夷”は末端の志士たちの”尊王攘夷”とは同音異語である。

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水戸学

水戸学は、強烈な日本中心主義に組み替えられた儒学(朱子学)の一変種である。

1657年(明暦3年)に第2代水戸藩主の徳川光圀が彰考館(史局)をおいて自ら「大日本史」の編纂を始めたことが起源とされている。「大日本史」は、天皇の治世を紀伝体で記してある歴史書であり、全体的に大義名分論の尊皇思想で貫かれていたことから、水戸藩は、水戸学によって、天皇を尊ぶ尊皇思想の気風を植え付けたともいわれる。

武家は足利尊氏を源氏政権の復興者として尊崇するのに、水戸学の史観にあっては賊である。水戸学では楠木正成を武家政権に反抗したということで忠臣としてまつりあげた。

水戸家には水戸黄門以来の秘密の言い伝えがあるという。「もし江戸の徳川家と京の朝廷のあいだに弓矢のことがあれば、いさぎよく弓矢を捨て、京を奉ぜよ」ということだった。

第九代水戸藩主の徳川斉昭は、藩校として弘道館を設け、水戸学を大幅に拡充したといわれる。このことから後期の水戸学は「文武両道」を旨とし、学問としては、儒学・国学などの思想以外にも医学や天文学などの自然科学を含む、総合的なものとなった。

水戸学は、江戸幕末の尊皇攘夷運動に強い影響を与え、明治維新の原動力の1つにもなった。

徳川時代の支配的な政治思想は儒学であった。しかし儒学には中華思想があって、日本は周辺の文化の遅れた地域に位置づけられてしまうので、日本人にはどうもおもしろくない。
徳川時代の半ばになると国学が興って、王朝が革命で交代する中国よりも万世一系の天皇をいただく日本のほうが優れているのだという理屈を立てたのだが、水戸学はそれを全面的に取り入れた。そうして水戸学流に組み替えられた華夷思想では、日本の周辺に出没しはじめた欧米の舟こそが、卑しむべき夷狄だということのなるのであった。

会沢正志斎に『新論』がある。”武士団は夷狄を打ち払う任務を持つのだ”というその思想は、社会的な役割を見失いかけていた幕末期の武士たちの共感を呼び、水戸学的攘夷集団が各地に出現した。

水戸藩激派の高橋多一郎らは脱藩して、大老井伊直弼の暗殺を果たした。この政治的効果は大きかったが水戸藩はここで力が尽きた。この後は激化する内紛(朱子学の宿命ともいえる)にエネルギーを使い果たし、また人材を失い全国的な運動に影響力を持ちえなかった。

維新後は政府の保護は得られず、弘道館は解体され、蔵書のほとんども国有となった。

朱子学

中国,宋代に朱熹(しゅき・朱子。1130〜1200)がまとめた儒学の考え。

古典の解釈を中心にした研究からはなれて,宇宙から人間にいたるまでを統一して理解する理論体系を樹立。上下の秩序を重視し、封建制度をささえたから中国・朝鮮・日本で国家の保護をうけた。

朱子学の思想は近代日本にも強い影響を与え、軍部の一部では特に心酔し、二・二六事件や満州事変にも多少なりとも影響を与えたといわれている。

今日の韓国の反日感情の一端を朱子学に求める人たちも多い。興味のある方は読んでみてください。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog246.html

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公武合体

江戸時代後期に公家(朝廷)の伝統的権威と、武家(幕府)を結びつけて幕府権力の再構築をはかろうとした政策論をいう。

幕府権力の再強化や雄藩の政権への参加を目的とし、幕府は朝廷の伝統的権威と結び付き、尊皇攘夷運動を押さえ、幕藩体制の再編強化を図ろうとした。

江戸時代の幕藩体制において朝廷は政治的に規制され、朝廷内部の運営を制限されていた。一方で宗教的、儀礼的な秩序においては頂点に位置され、伝統的権威は保ち続けていた。江戸時代後期には地方の飢饉や都市部での打ち壊し、蝦夷地や長崎への異国船の来航などで将軍権威が揺らぎ、光格天皇の頃は朝廷権威の復興を望み、幕府との間に「尊号一件」が起こるなど折衝した。

桜田門外で井伊が暗殺されると、京都では長州藩や薩摩藩など西南諸藩が公家と関係して政局に関与し、薩摩の島津久光は兵を率いて上洛し、尊皇攘夷派を取り締まり、朝廷に運動して公武合体を推進した。久光は勅使大原重徳とともに江戸へ赴き、一橋慶喜(徳川慶喜)の将軍後継職就任や、幕府に対して幕政改革などを要求する。

1861年(文久元)には、幕府による攘夷実行を条件に孝明天皇の妹の和宮を13代将軍家茂夫人として降嫁させることに成功した。徳川家茂と孝明天皇が死去すると効果を示さなくなり、京都では尊攘派が主流となり幕府に対して攘夷決行を求めた。

幕府は一橋慶喜が京都へ赴き、大政委任の確認をさせるなど運動するが、尊攘派は天皇の大和行幸による王政復古を目指す。朝廷では実力による尊攘派の一掃を図り、八月十八日の政変で薩摩藩が会津藩と結託して長州藩や尊攘派の公家らを追放し、実質上、朝廷勢力は長州から薩摩へ移った。

1867年(慶応3年)土佐藩主山内容堂の建白で幕府が朝廷に政権を返上し、諸侯会議により幕政改革を推進する公議政体論が主張され、15代将軍となった慶喜により大政奉還が行われるが、王政復古小御所会議で討幕運動が主流となる。

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戊午の密勅

(ぼごのみっちょく)  安政5年8月8日(1858)

朝廷は勅許も無く日米修好通商条約を調印した幕府に不信感を強め、勅諚を発し幕府を詰問しようとした。さらに水戸藩にも同じ勅諚を下し、その趣旨を諸藩に回達させようと図った。

「戊午」は下賜された日が戊午(つちのえ・うま)であったことに由来し、「密勅」とは正式な手続(関白九条尚忠の裁可)を経ないままの下賜であったことによる。

幕府の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅諚が渡されたということは、前例の無いことであり秩序の混乱をもたらす。また幕府の威信が傷つけられたということであり、幕府は勅諚の内容を秘匿し、大老井伊直弼による安政の大獄を起こす引き金となった。

内容は
・勅許な条約に調印したことを責め、説明を求める。
・幕府は御三家および諸藩と協力して公武合体の実を成し、攘夷を推し進る幕政改革を求める。
・上記2つの内容を諸藩に廻達せよという副書。

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安政の大獄

1853年に12代将軍徳川家慶が死去し、第13代将軍には子の徳川家定が就任するが、病弱であったため次の将軍継嗣が問題となった。前水戸藩主徳川斉昭の子で英明と噂されていた一橋慶喜(徳川慶喜)を支持し、諸藩との協調体制を望む一橋派と、系統重視で紀州藩主徳川家茂を推す保守路線の南紀派に分かれ、激しく対立した。 またこの頃、米国総領事ハリスより通商条約の調印を迫られていた。幕府は朝廷の権威を借りて事態の打開を図ろうとしたが、在京の尊攘派の工作もあり、孝明天皇の勅許を得ることはできなかった。 1858年4月、南紀派により井伊直弼(彦根藩主)が大老職に就任する。井伊家は譜代大名筆頭であり、幕政や朝廷に大きな影響力を持っていた名門である。直弼は11代当主・直中の14男で側室の子だったので序列からいって当主になる見込みはなかった。が、兄の12代当主・直亮の養子となったことから道が開け、13代藩主に登りつめた。このことが直弼に過剰な使命感を持たせたといわれる。 井伊は日米修好通商条約の締結と家茂の将軍継承を断行する。将軍の正統性を血統に求める当時の常識からすれば家茂が将軍になるのは当然だったし、条約の調印は井伊が大老就任前からの既定路線だった。外交上、いつ得られるともわからない勅許を待ってはいられない政治情勢だったのである。 前水戸藩主徳川斉昭、水戸藩主徳川慶篤(斉昭の子で実権は父に握られる)、尾張藩主徳川慶勝、福井藩主松平慶永らは井伊を批判するために不時登城(登城日では無い日に登城)を行ったが、井伊は彼らに対して隠居謹慎などの処分を下した。 1859年8月、水戸藩に朝廷から戊午の密勅が下された。この密勅は勅許なき条約締結を詰問し、公武合体を進めるように求める文面であったから、幕府主導で政治を行おうとする井伊は驚愕した。また勅諚が幕府をさしおいて他藩に下されることは前例が無く、秩序の混乱を意味するから幕府の立場からすれば到底許容できるものではなかった。 密勅降下に関わった元小浜藩士・梅田雲浜の逮捕を皮切りに空前の弾圧がスタートした。密勅に直接関わった者だけでなく一橋派、尊攘派を中心に大名・公卿・藩士(志士)ら幕府批判者80人余りが処罰された。井伊にとっては従来の幕府政治を維持・安定させるための措置で自らが背負った使命を全うするためには避けては通れない政治的決断だったといえる。 井伊の評判が今日においても悪いのは、単に討幕派史観によるものという理由だけではなく、これだけの大獄をおこしながら、その理由が国家人民のためではなく、ひらすら徳川幕府の威信回復のためだったことにある。 井伊が1860年3月の桜田門外の変で暗殺された事により弾圧は収束する。幕閣では一橋派が復活し、文久の改革が行われ、将軍家茂と和宮の婚儀が成立して公武合体路線が進められた。安政の大獄により幕府は秩序回復をめざしたが、モラル低下や人材の欠如、反幕派による批判の過激化、朝廷権威の浮上による幕府権威の失墜という事態を招き滅亡の遠因ともなった。

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池田屋事件

元治元年6月5日(1864) 元治元年(1864年)6月5日に、京都三条小橋の旅館池田屋で京都守護職配下の治安維持組織である新選組が、長州藩の尊皇攘夷激派を襲撃した事件である。 幕末の京都は政局の中心地となり、尊皇攘夷や勤皇などの思想を持つ諸藩の浪士が潜伏して活動していた。長州藩は会津藩と薩摩藩による宮中クーデターである「八月十八日の政変」で失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていた。尊皇攘夷派は勢力挽回を試みており、京都守護職は新選組を用いて市内の警備や探索を行わせる。 五月下旬頃、諸士調役兼監察の山崎烝、島田魁らによって四条小橋上ル真町で炭薪商を経営する枡屋(古高俊太郎)の存在を突き止め、会津藩に報告。武器や長州藩との書簡などが発見される。古高を捕らえた新選組は、土方歳三の拷問により古高を自白させる。 計画は祇園祭の前の風の強い日を狙って京都御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王 (後の久邇宮朝彦親王)を幽閉し、一橋慶喜(徳川慶喜)、会津の松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去るというものであった。さらに探索において長州、土佐藩、肥後藩などの過激派が古高逮捕による計画の実行、中止を協議する会合が行われる事を突き止める。 探索
新選組は会津藩、桑名藩などに応援を要請するが、会津らの動きが遅く時刻になっても動かないため、事態は一刻を争うと見た局長の近藤勇は単独行動に踏み切り、近藤隊と土方隊の二手に分け捜索を開始する。当時、新選組では病人が多いなどの理由で人手が少なく、実際に捜索に当たったのは、近藤隊10人、土方隊24人の総数僅か34名だった(異説あり)。新選組は 八坂神社から縄手通を土方隊、三条大橋を渡って木屋町通を近藤隊が探索した。 激戦
捜索の末、池田屋で謀議中の尊攘過激派を発見した近藤隊は数名で斬り込み、真夜中の戦闘となる。20数名の尊攘過激派に対し、当初踏み込んだのは近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名で残りは屋外を固めた。裏口を守っていた安藤早太郎、奥沢栄助、新田革左衛門達に浪士が脱出しようと必死で斬りこみ逃亡。これにより奥沢は死亡し安藤、新田も一ヵ月後に死亡した。 屋内に踏み込んだ沖田は奮戦したが戦闘中に倒れて戦線離脱する(肺結核での喀血の為という説有り)。一階の藤堂は汗で鉢金がずれたところに、額を斬られ戦線離脱。近藤、永倉の二人となるが、土方隊の到着により、戦局は新選組に有利に傾き(間に合わなかったとも言われる)、9名討ち取り4名捕縛の戦果を上げる。 会津、桑名藩の応援は戦闘後に到着した。土方は手柄を横取りされぬように、一歩たりとも近づけさせなかったという。(近年、会津・桑名・彦根や町奉行所も探索に加わっていたとされ、池田屋襲撃も新選組の単独行動だったのか疑問が出されている)この戦闘で数名の尊攘過激派は逃走したが、続く翌朝の市中掃討で会津、桑名藩らと連携し20余名を捕縛した。 翌日の正午に新選組は壬生に帰還した。沿道には見物人であふれていたという。 攘夷派の影響
御所焼き討ち計画を未然に防ぐ事に成功した新選組の名は天下に轟いた。逆に尊攘派は吉田稔麿、北添佶摩、宮部鼎蔵、大高又次郎、石川潤次郎、杉山松助、松田重助らの実力者が戦死し、大打撃を受ける。桂小五郎(木戸孝允)は8時頃池田屋に到着し早すぎたので対馬藩邸に戻り、難を逃れたとされているが新選組の襲撃が10時半であるところから、出席する意思は無かったのかもしれない。 この事件をきっかけに、長州藩は強硬派に引きずられる形で挙兵、上洛し、7月19日の「禁門の変」を引き起こす。 池田屋事件により明治維新が一年遅れたといわれる。また、逆に尊攘派を刺激して維新を早めたという見方もある。

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禁門の変(蛤御門の変)

文久3年(1863)に会津藩と薩摩藩が協力したクーデターである「八月十八日の政変」で長州勢は京都から駆逐され朝廷は公武合体派の勢力下となった。長州では、朝廷を再び攘夷支持陣営のものとするため、京都に乗り込もうとする積極策が論じられた。この時に強硬に上洛を説いたのが、尊攘激派の久坂玄瑞、来島又兵衛ら。反対、慎重派が桂小五郎、高杉晋作ら。 元治元年(1864)6月5日の「池田屋事件」で多数の尊攘志士を失った報が長州にもたらされると、積極派が押し切り”薩賊会奸”を掲げて挙兵した。「攘夷を国是に戻すことの嘆願,三条実美らの冤罪哀訴」を要求したが聞き入れられず、7月19日、会津・薩摩等京都警備勢との間に蛤御門付近で戦端が開かれた。1日の戦闘であったが長州勢は敗れ、来島・久坂・真木ら指導者は戦死した。これによって長州藩尊攘激派は事実上壊滅した。京都は三日におよぶ大火で2万8千余の家屋が焼失した。これは戦国時代前夜の応仁の乱以来の大災事だったという。 この後長州藩に対し、「長州藩兵が御所へ向けて発砲した」ことなどを理由に幕府は長州藩を朝敵として、第一次長州征伐(幕長戦争)を行う。長州藩は三家老を切腹させて幕府に謝罪し収拾を図った。 蛤御門の名前の由来は、天明の大火(1788年1月30日)の際、それまで閉じられていた門が初めて開門されたので、焼けて口を開ける蛤に例えられたためである。蛤御門は現在の京都御苑の西側に位置し、天明の大火以前は新在家御門と呼ばれていた。禁門の変が蛤御門の変とも呼ばれるのは、蛤御門付近が激戦区であったためである。そのため今も門の梁には弾痕の跡が残る。

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寺田屋事件

文久2年4月23日(1862) 藩兵千名を率いて上京した島津久光(薩摩藩主の父)は、日本中の尊攘派の希望をその身に背負った。 しかし、久光はその期待を裏切り、公武合体活動を開始した。同時期、伏見の船宿寺田屋に集合し、久光の動向を見守っていた薩摩藩尊攘派の有馬新七らは、このことに不満を持ち、九州の倒幕派の中心的存在だった久留米藩士真木和泉守保臣・公卿中山忠能の元家臣田中河内介らと共謀して関白九条尚忠・京都所司代酒井忠義邸を襲撃し尊攘討幕の先駆けにしよう計画した。 西郷隆盛は、これを説得するため上京するが、この行動が島津久光の怒りに触れ、沖永良部島に幽閉される。 久光は、朝廷から浪士鎮撫の勅命を受けているために、自藩の浪士が過激な行動を起こすことを恐れ、さらに国事周旋つまり、個人ではなく藩として幕府に働きかけて、攘夷を行わせることを目標にしていたために、志士たちのこうした行動を阻止する必要があった。久光は、有馬らと親交のある示現流の達人、奈良原喜八郎、大山格之助、道島五郎兵衛ら9名を鎮撫使として派遣し、「藩邸に同行するように」と求めたが、有馬はこれを拒否し、激しい斬りあいが始まった。 この戦闘によって討手1人と、有馬ら6名が死亡、2名が重傷を負った。また2階には多数の尊攘派志士がいたが、奈良原らが刀を捨てて説得した結果、西郷従道(隆盛の弟)、三島通庸、篠原国幹、大山巌(隆盛の従兄弟)ら、後に明治政府の高官となる藩士たちはこれに従い、襲撃を中止して国へ戻ることに同意した。他藩の志士も、薩摩藩が抜けては実行不可能となり、この襲撃計画を断念 し投降した。 田中河内介とその子は、「薩摩藩に引き取る」と称して船に乗せられたが「河内介が薩摩に在れば事を起すのでは」と懸念し船上で斬殺された。(田中河内介は明治天皇の養育係をしていた人で、維新後この惨劇を知った天皇は大変嘆き悲しんだという。)

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大政奉還

慶応三年(1867)6月、坂本龍馬は藩船「夕顔」船上で土佐藩参政、後藤象二郎に「船中八策」を提示し大政奉還策を語った。 この文書は幕府と討幕派との武力衝突を避けうる可能性を持ち「大政奉還建白書」の基案となり、明治新政府の「五箇条の御誓文」にもつながる注目すべき文書だった。 大政奉還とは、慶応3年(1867)に幕府征夷大将軍徳川慶喜が、大政(統治権)の朝廷(天皇)に対する返上を申し出た政治的事件である。江戸時代後期には江戸幕府の全国統治は天皇から将軍への委任関係に由来するという大政委任論と呼ばれる学説が唱えられていた。 幕府が政権を朝廷に返すことによって、徳川家を一大名として保護し、新政府内での発言力を温存させ、薩長の討幕の理由を失わせる一石二鳥の妙案だった。 土佐藩主山内容堂は熱烈な勤王家ではあるが、関ヶ原以来大恩ある徳川家にも忠誠を誓っている。公議政体論を主張していた容堂は将軍徳川慶喜擁護の立場から後藤象二郎の意見を入れ10月3日、慶喜に大政奉還の建白書を提出した。 将軍・慶喜は二条城会議で大政奉還上奏文の提出を決定し、10月14日、朝廷に上奏され翌15日勅許された。このとき薩摩は慶喜が大政奉還を拒否することを口実に武力討伐を行う計画であったが、朝廷はそれを取りけさざる得なかった。

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王政復古

慶応3年12月9日(1868年1月3日)に朝廷が発した、政権が天皇に移った事を宣言する政変である。 江戸時代後期には諸外国との通商条約の締結などを巡り朝廷の伝統的権威が復興し、幕府と朝廷の提携による公武合体政策が取られ、一方では尊皇攘夷派など反幕府思想、武力による倒幕運動なども存在した。 土佐藩の建言もあって、15代将軍の徳川慶喜は公議政体論に基づき、慶応2年(1867年)10月14日に二条城で大政奉還を行い、250年あまりに渡って江戸幕府、徳川将軍家が保持していた政権は朝廷に移った。大政奉還が成立すると、朝廷は新たな公議政体を創設するため、徳川家勢力からの徳川慶勝、松平慶永、薩摩藩の島津久光、土佐藩の山内豊信、宇和島藩の伊達宗城、芸州藩の浅野長訓、肥前藩の鍋島直正、岡山藩の池田茂政(慶喜実弟)ら諸藩に上洛を命じた。 一方、大政奉還によって討幕の大義名分が失われたため、討幕派であった岩倉具視、大久保利通らは天皇を手中にし朝廷を掌握するためのクーデター計画を進めていた。当初は慶応3年12月8日を予定していたが、公議政体派である土佐藩の後藤象二郎から12月10日を要請され、やむなく1日遅らせての12月9日に決行することで決した。 前日の12月8日夜、岩倉は自邸に薩摩、土佐、安芸、尾張、越前各藩の重臣を集め、王政復古の断行を宣言、協力を求めた。また、摂政二条斉敬によって翌日朝にかけて行われた朝議では、毛利父子の官位復帰と入京の許可、岩倉具視ら勅勘の堂上公卿の蟄居赦免と還俗、九州にある五卿の赦免などが決められた。これが旧体制による最後の朝議となった。 王政復古の大号令
慶応3年12月9日、朝議が終わり公家衆が退出した後、待機していた薩摩藩兵ら5藩の軍で京都御所9門を固められた。御所への立ち入りは藩兵によって厳しく制限され、驚いた二条摂政や久邇宮朝彦親王なども参内を禁止された。そうした中、赦免されたばかりの岩倉具視らが参内し、御所内学問所において明治天皇臨席の元、王政復古の大号令が下された。 内容は、摂関制度(摂政・関白)、幕府を廃し、総裁、議定、参与の三職をおく、というもので、天皇による新政府の成立を宣言するものであると同時に、徳川幕府の廃絶を意味した。
幕府消滅と同時に鎌倉幕府以来の武家政治が終焉した。二極状態にあった日本の国家体制は権力の所在が明確になり、当時の諸外国からは評価された。 小御所会議
この日の夕方、御所内の小御所にて明治天皇の御前における新体制として最初の会議が開かれた。ここには、総裁、議定、参与の各職が出席したが、各藩から選ばれた藩士も敷居際に陪席を許され、この中には薩摩藩の大久保利通、土佐藩の後藤象二郎、広島藩の辻将曹らがいた。 山内豊信ら公議政体派は、前将軍の徳川慶喜が出席を許されていないことを非難し、慶喜を議長とする諸侯会議の政体を主張した。これに対し岩倉、大原らは徳川政権の失政を並べ、辞官納地による誠意を見せることが先決であるとして両者譲らず、会議は休憩に入った。 相談を受けた西郷は「短刀一本あれば片付く」(土佐藩主・山内容堂の暗殺を意味する)と答え、これを聞いた岩倉らは芸州藩を通じて土佐藩に働きかけたため、再開された会議では朝敵となることを恐れた山内容堂らは沈黙し、クーデターは成功した。結果、徳川慶喜の辞官納地、京都守護職、京都所司代の廃止が決せられ、一門の慶勝、慶永が使者としてたつ事になった。 しかしその後、土佐藩ら公議政体派が巻き返し、辞官納地も有名無実化される寸前になったが、薩摩藩の暗躍に幕府側の強硬派が乗せられ、鳥羽・伏見の戦いに突入することになる。

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参考書籍
歴史群像-坂本龍馬・ウィキペディア、フリー百科事典
幕末の思想・幕末大全・逆説の日本史
国際派日本人養成講座、他