山内一豊と千代 「功名が辻」

06NHK大河ドラマ 「功名が辻」 放映記念

司馬遼太郎氏原作の「功名が辻」がドラマ化されNHKで放映されている。山内 一豊といわれてもご存知の方はあまりいないのではないだろうか?戦国時代の織田、豊臣、徳川といった天下に関わった武将達と比べるとどうしても見劣りするし、武田、真田といったところの派手さもない。

高知では山内氏というと一豊と並び幕末の15代藩主山内容堂(豊信)が有名だが、この頃に活躍した坂本龍馬人気が飛び抜けているため、また山内一豊が長宗我部氏の一領具足を弾圧したこと、さらに抑圧は幕末まで続き容堂が一領具足の末裔である郷士達の組織した土佐勤王党の多くを処刑したこともあって、今ひとつ人気が薄いようだ。

山内氏としては当然のことなのだろうが判官びいきなのは仕方ない。が「一豊とその妻・千代」となると俄然輝きを増してくる。戦いに明け暮れた時代で女の出る幕などないような錯覚を覚えるが、さにあらず。不器用でさしたる取り柄もないと思われていた男が、土佐24万石の大名となった、千代との二人三脚の活躍が楽しみ。

ちなみに一豊の家臣・五藤吉兵衛役で出演している武田鉄矢氏は龍馬ファンで有名だが、先の理由から最初出演を渋ったそうである。「五藤吉兵衛は土佐への国入り前に死んでしまうから」と説得されたという。

山内 一豊(やまうち かずとよ) 

天文14年(1545年)〜 慶長10年旧9月20日(1605年11月1日))

戦国時代から安土桃山時代、江戸時代の武将、初代土佐藩主。

通称を伊右衛門もしくは猪右衛門(いえもん)。父は岩倉織田氏の家臣の山内盛豊、母は梶原氏の娘か。

尾張国葉栗郡黒田(現在の愛知県一宮市木曽川町黒田)に生まれる。一豊の少年期に主家・岩倉織田氏(当主は織田信安)は清洲にあった同族の有力者・織田信長と対立していたが、永禄初年(1557年〜1559年頃)に父と兄が戦死し、流浪することとなった。

永禄11年(1568年)頃、いわば仇でもある織田信長軍に参加し、木下藤吉朗(豊臣秀吉)の与力(信長の家臣であるが秀吉軍に出向している形)になる。

元亀元年(1570年)四月の朝倉氏との金ヶ崎の合戦に参加し、敵将・三段崎勘右衛門を討ち取った。武功としては後にも先にもこれが最大のものだった。このとき顔に矢を受けるという重傷を負い家臣の五藤吉兵衛は一豊の顔を踏みつけて矢を抜いたという。

この直後、浅井氏の裏切りにあって織田軍は撤退を余儀なくされ殿軍(殿軍【しんがり】とは本隊を逃がすため最後まで敵地に留まって追っ手を引き付ける役目で命を落とすことが多かった)を務めた秀吉軍の一員として働いた。秀吉もまた、武功を立てるために運を天に任せて殿軍を志願したのだった。後日、信長は一豊の家臣に薬を与え看病を怠りなく続けるように厳命したという。

さらに同年9月の朝倉・浅井氏との姉川の戦いでも軍功を挙げた。これらの功績により、天正元年(1573年)に近江国浅井郡唐国(現在の滋賀県虎姫町域)で400石を与えられ、小さいながらも領主となった。この後天正5年(1577年)には播磨国で2千石を領している。

信長の死後も秀吉の家臣として活躍し、賤ケ岳の戦いや小牧・長久手の戦いに参陣しているが、この後秀吉の甥・豊臣秀次の付家老となり、天正13年(1585年)には若狭国高浜城主、まもなく近江長浜城主となり2万石を領した。着々と出世街道を行く一豊であったが、天正大地震によって一人娘の与祢姫を失う不幸にも見舞われた。

天正18年(1590年)の小田原の陣にも参戦し、山中城攻めに参加している。まもなく遠江国掛川に6万石の所領を与えられた。秀吉は関東の家康が叛乱をおこした場合を想定し、箱根から西の東海道筋に豊臣家に忠誠心の強い律儀な武将を配置した。駿府城の中村一、掛川城の一豊、横須賀城の有馬豊、浜松城の堀尾吉晴など。掛川では、城の修築と城下町づくりを行い、更に洪水の多かった大井川の堤防の建設や流路の変更を、川向いを領する駿府城主・中村一氏とともに行っている。

秀吉の死後の慶長5年(1600年)には、徳川家康に従って会津の上杉景勝の討伐に参加し、家康の留守中に石田三成らが挙兵すると、関ヶ原の戦いでは東軍に与している。この最中、一豊は、下野国小山における軍議で諸将が東軍西軍への去就に迷う中、真っ先に自分の居城である掛川城を家康に提供する旨を発言し、これによって軍議の流れが決まり参加していた諸将も家康に味方する腹を決めたといわれる。

関ヶ原の戦いでは際立った戦功の無かった一豊であるが戦後、土佐国24万石を与えられた。
関ヶ原に出陣した東軍諸将のなかで織田、豊臣、徳川の三代を武将として生き延び得た者は家康以外では一豊しかいない。運の強さを持ち合わせていたということだろう。


高知城

高知城の一豊像

慶長6年(1601年)に、土佐国浦戸城に入城。一領具足を中心とした旧長宗我部氏の武士の多くは新領主に反発し、土佐国内で多くの紛争が起きるが、一豊は種崎浜での虐殺など、あくまで武断措置を取ってこれに対応した。

千代はこれに反対し一領具足の藩士への登用を提案したようであるが一豊は聞き入れず、人が変わったように徹底的な弾圧を繰り返した。これは一領具足への異常なまでの恐怖心と、統治が遅れれば、その能力を幕府に疑われ自らの立場を危うくすることを恐れたがためと思われる。

第2代藩主・忠義の頃から一領具足の懐柔、新田開発などを目的に一領具足の郷士(下士)への登用が始まったが、この問題は幕末まで禍根を残すことになる。

筆山頂上から見た高知市街、中央緑地に高知城が見える

←高知市筆山、山内氏墓所への参道

一豊は側室を持たず嫡男がいなかったため弟・康豊の子、山内忠義を養子にし第2代藩主とした。

この時代の武将で側室を持たなかったのは大変に珍しく他に数例しかないようである。お家断絶の危機であるから子ができなければ側室を置くのが当然だったらしいのだが・・・・

この年、高知平野内の大高坂山に統治の中心拠点として築城を開始(奉行は関が原の戦いの後浪人となった百々綱家を招聘)慶長8年、入城し城下町の整備を行った。慶長10年(1605年)、高知城にて病死、享年61。法名は大通院殿心峯宗伝。墓所は高知県高知市筆山の山内家墓所ほか。


千代  見性院(けんしょういん)

1557年〈弘治3年〉〜 1617年12月31日〈元和3年12月4日〉

出自は諸説あり、浅井氏家臣の若宮喜助友興の子とも、群上八幡城主の遠藤盛数の子ともいわれる。
「功名が辻」では原作、ドラマとも若宮喜助友興の子として書かれているが最近の研究では遠藤氏説が有力視されている。

二人が結婚したのは元亀二年(1571)から天正七年(1579)頃とされ、元亀二年(1571)なら一豊27歳、千代15歳ということになる。(この当時、女子の成人は15歳とされていたよう)馴れ初めに関しても詳細不明だが、近江坂田郡宇賀野(滋賀県近江町)で一豊の母・法秀尼に千代が裁縫を習ったことが一豊との縁の始まりで気に入った法秀尼が、一豊の嫁にと勧めたという話も伝わっている。

見性院とは、禅宗に帰依した千代が、一豊の死後授かった法号。晩年は京都で余生を送った。一豊のいない土佐に未練は無かっただろうし、入国以来、一領具足との闘争が続き、土地への愛着や良い思い出を持てなかったのかもしれない。

高知城の千代像(昭和40年建立)

高知県で銅像建立の計画が持ち上がったとき、司馬遼太郎氏に相談すると「豊かできれいで。才能のみずみずしい女流芸術家といった感じの銅像にしていただきたいですね」とおっしゃられたそう。

■千代の内助の功を示す有名な二つのエピソードを紹介する。

「名馬購入」

ある時、安土城下に東国一と謳われる栗毛の名馬がやってきた。織田家中の者たちは皆この馬を欲しがったが、あまりにも高くて手が出せない。一豊もその一人だったが、話を聞いた千代は鏡箱に入れてあった嫁入りの持参金、黄金十枚(まだ貨幣としての金貨の無い時代で大変な価値をもっていたようだ)を一豊に渡し、その名馬を買わせた。

やがて馬揃え(馬揃えとは観兵式のことで京の都で織田軍が天下最大の軍容を誇示する一大イベントだった)が行われた時、一豊は買った名馬に跨ってこれに参加した。それが信長の目に止まることになる。

そのころの山内氏は決して楽な生活ではなかったが、「夫の一大事に使え」と輿入れの時に託された(「功名が辻」では伯父・不破市之丞)この金には手をつけず”そのとき”を待っていたのである。

信長はことの次第を聞き「『織田家中には買える者がいなかった』と吹聴され、恥を掻かずに済んだ」と喜び、「武士として天晴れなる心掛け」と褒め称えたという。

これは単に高価な駿馬を買ったということに留まらず、実質的には戦場での働きを倍化させ、また当時無名の山内一豊を知らぬ者が無いほど有名にした。このコストパフォーマンスは非常に高い。

ところでこの話、真偽不明らしい。山内家の史料からは見つかってないそうだ。1700年頃、新井白石の著した「藩翰譜」などに登場する話で、戦前の教科書にも載っていたという。話自体がフィクションであるか、黄金を渡したのは一豊の母では?という説もある。

「笠の緒の文」

会津の上杉景勝の討伐の陣中にあった一豊のもとに、人質として大坂にいた千代から封印が施された文箱が届いた。一豊は封を解かず、これをそのまま家康に献上した。

箱の中に入っていたのは、一豊への石田三成陣営に属する増田長盛・長束正家が連盟した大坂方の勧誘状と、妻の添え状だった。千代の添え状には、大坂で三成挙兵の動きがあること、大阪のことは心配せず、家康様に忠節を尽くすように、という内容が書かれていた。

千代はこれとは別に使者の笠の緒に密書を忍ばせておいた。この密書には「封を解かずに家康に献上されますように」と書かれていたという。

封を解かずに家康に差し出したということは大阪方の条件がいかなるものでも一豊の腹は決まっているということで、条件を見てから判断した、と思われるのとでは雲泥の差がある。秀吉の部下であった一豊の忠誠心を示す絶好のパフォーマンスであり、家康を感激させたことはいうまでも無い。

一豊は、翌日の軍議の席上、一豊の居城である掛川城を家康に提供することを申し出、東海道筋の諸将も我も我もとこれに従い家康軍は関ヶ原へ向かった。家康は東軍を一枚岩にする、この政治的効果を高く評価し、たいした武功のない一豊が土佐24万石の国主に成り得た最大の功名だといわれている。

当時、大阪方から人質として大阪城に入るよう命令されていた千代は屋敷のいたるところに薪を積み上げさせ「無理強いすれば火をつけて自害する」と覚悟を見せた。この前、細川忠興夫人のガラシャは人質となることを拒否し、屋敷に火をかけ家老に命じて命を絶っていた。(ガラシャはキリシタンで自害は禁じられていた)これを見て大阪方は大名夫人に死なれては敵を増やすだけだと、人質に取ることを断念したという。


■原作「功名が辻」にみる千代の夫操縦術

新婚早々の頃

「あの、一豊様。男としてご自分のご生涯をどのようになればよいと望んでいらっしゃいます?」

あまり深く考えたことのない一豊は、少し間をおいて答えた。

「一豊様はなれます」

と千代は巫女のように断定した。

「お顔を見、お心をみてきっと一国一城のあるじにおなり遊ばすお方だと思いました」
「千代だけではございませぬ。伯父の不破市之丞もそう申しておりましたし、母の法秀尼もそのようなことを申してわたくしに聞かせました」

「なれますとも。およばずながら、山内伊右衛門一豊様が、一国一城のあるじになられますまで、千代が懸命にお助けいたします。その誓いを、この夜、たてたかったのでございます」

千代は決して「こうしなさい」とは言わない。一豊の自発的な言葉を引き出し、自分ばかりでなく伯父や母も言っていたと一豊に自信を持たせている。

一豊が出世街道を順調に進めたのは、秀吉の家臣になったことが第一の要因だろう。
信長の草履とりからのしあがった秀吉を織田家中の門閥を誇る者たちは「成り上がり者め」とひどく軽侮していた。

ある日千代が岐阜城下の町を歩いていると騎乗の秀吉に出会った。秀吉は「山内伊右衛門どのの御内儀でござるか」と馬をおり「伊右衛門どのの近江でのお働き、遠目で拝見しておりましたが、みごとなものでござった。よしなにお伝えくだされ」と言って去っていった。”ひとたらし”といわれる秀吉お得意の人心掌握術である。

この路上の一件で秀吉こそ織田第一の出頭人になると見込んだ千代は、

「木下様とおっしゃる方はおもしろいおひとでございますね」

となにげなくいい、秀吉が褒めていたことを話して関心を持たせた。ここでも「秀吉様にお仕えなさればいかが」とはいわない。人は自分を認めてくれる上司のもとで働きたいと思うものだ。この千代の”暗示”のとおり一豊は秀吉隊の与力になった。

「よろしゅうございましたねえ」

「でも、木下籐吉朗様は、多少かるがるしいところもあり、わたくしの大事な旦那さまを託せるおかたでございますでしょうかしら」

と、千代は心とは逆のことをいった。伊右衛門は子供のようにむきになり、

と、得意然といった。

「それはよろしゅうございましたこと。一豊様の御眼識ならば、おたしかでございます」

と、妻にいわれたからではなく自分の考えで決めたことにさせておく。
その翌日、郎党の祖父江、五藤の二人を呼び、

「あるじが、こんど木下籐吉朗様の手につかれたこと、二人はどう思います」

と聞いた。聞かれた二人は、少し不満に思っていてどう答えていいかわからない。

「せっかく、あるじが木下様の手、ときめられたのですから、あなたたちからも、木下様こそ頼むべき大将じゃとかねがね思うておりました、よろしゅうございましたな、と申しあげなさい。夫の御奉公の気持ちがいちだんと勇みたつことでしょう」

その日帰ってきた一豊は、

「よろしゅうございましたこと」

スリコミ完了(^_^)見事な完璧フォローでした。
ただし一豊はボンクラではない。その才能を千代は見抜き引き出したのでしょう。

*会話文、司馬遼太郎著「功名が辻」より引用