嘉永元年(1848)7月、山内家13代豊煕が江戸で病死した。夫人(島津斉興の娘で斉彬の妹)との間には実子がおらず、14代藩主には実弟の豊惇が就いた。ところが、その豊惇も、幕府に家督相続を認められての帰国途上、嗣子のないまま急死した。このままではお家とりつぶしである。
土佐藩では豊惇の死去を隠したまま分家南屋敷の豊信(容堂)を豊惇の養嗣子とし、豊惇の隠居と容堂の家督相続を幕府に願い出た。その結果、同年12月、飼い殺しの運命にあった容堂は一転、15代藩主に就任した。実は豊惇の死去は公然の秘密であり、幕府が容堂の就任を黙認したのは、首席老中阿部正弘に対して、縁戚の薩摩藩島津斉彬らが裏工作したことが功を奏したのだという。
嘉永6(1853)年9月、容堂は藩政改革に着手した。改革にあたっては吉田東洋を参政(仕置役)に、小南五郎右衛門を側用役に抜擢した。
安政元年(1854)6月、東洋は不敬の罪(酒宴の席で山内家親戚である松下嘉兵衛に殴られ、殴り返したといわれる)で参政を罷免され、8月には録没収の上、追放を命じられた。失脚した東洋は鶴田に閑居し、「少林塾」を開いた。門下に後藤象二郎(東洋の甥)・福岡孝弟・間崎哲馬・岩崎弥太郎らがいる。
失脚した東洋ではあるが容堂にその才を愛され、最も信頼されていた。
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| 山内容堂 | 山内家下屋敷大門と長屋 幕末の藩主、山内豊信(とよしげ・容堂)が1864(元治1)年に家臣7人の屋敷を召し上げ下屋敷を設けた時に建てた長屋で、全国的にも数少ない本格的な武家長屋のひとつとして国の重要文化財に指定されている。現在は温泉ホテルの三翠園敷地内にあり、資料館として見学することができる。長屋内には藩政後期の土佐藩士や庶民の生活用具、和船(模型)、風俗絵巻などが展示されている。 |
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安政元年(1854)、ペリーが再来し、日米和親条約が結ばれた。安政3年(1856)には総領事ハリスが来日し、通商条約を強く迫った。
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| 徳川慶喜 |
将軍後継には、水戸藩主・水戸斉昭を中心として一橋慶喜を擁立する一派(一橋派・幕政改革派)と現将軍との血縁の濃さを重視して紀州藩徳川慶福(家茂)を擁立する一派(南紀派・保守派)が対立した
。慶喜は水戸斉昭の子で一橋家へ養子に出たもの。水戸家は御三家ではあるが将軍家に養子を出したことはなく血縁は薄い。また水戸家は尊皇攘夷派であり将軍家よりも朝廷が大事というお国柄であったから旗本など徳川家臣に人気がなかった。
外様藩主である容堂は、本来将軍後継について意見する立場ではなかったが、松平春嶽(越前藩主)・島津斉彬(薩摩藩主)伊達宗城(宇和島藩主)らとともに慶喜擁立運動に参加し、越前藩の橋本左内と連携しながら縁戚の三条家を通して条約勅許獲得の朝廷工作を行った。
しかし、安政5年(1858)4月、南紀派の彦根藩主井伊直弼が大老に就任し、5月、慶福(家茂)が後継に指名されて一橋派は敗北した。
安政5年8月8日、孝明天皇が水戸藩に勅書を下賜した事件(戊午の密勅)をきっかけに安政の大獄がはじまり、井伊直弼は戊午の密勅に関わった者にとどまらず尊皇攘夷派を中心に幕政批判者を処分した。、10月、容堂は朝廷と通じて幕議に逆らったとして謹慎を命じられ、文久2年(1862)4月に赦されるまで品川の鮫州別邸に幽居した。
この間の万延元年3月(1860)、桜田門外の変が起り、大老井伊直弼が水戸脱藩浪士らによって暗殺されている。
安政5年1月(1858)、家老・福岡宮内、側用役・小南五郎右衛門の尽力で参政に復帰した東洋は容堂の信頼を背景に若年の豊範の補佐を務め、富国強兵論に基づく門閥政治打破・流通機構の統制強化・洋式兵器の採用などの藩政改革を行った。また東洋は改革実行のため、人材登用を積極的に行った。後藤象二郎・福岡孝弟・板垣退助(乾退助)などが頭角を表したのもこの頃である。しかし、改革に反発・抵抗する保守派は、東洋ら改革派を「新おこぜ組」と呼んで敵視した。
文久元年(1861)8月、武市半平太(瑞山)が土佐勤王党を結成した。江戸に遊学していた武市は住谷寅之介(水戸)・樺山三円(薩摩)・久坂玄瑞(長州)ら諸藩の尊攘激派と知り合い、土佐藩でも同志を組織化しようとしたのである。坂本龍馬・平井収二郎ら192名が血判加盟し総数300余名の一大勢力となった。土佐勤王党は大部分が郷士を中心とする下士と庄屋であった。
藩を挙げての尊皇攘夷を唱える(一藩勤王)武市は薩長に遅れぬよう藩庁に重ねて進言したが、東洋は書生論として退けた。東洋は容堂同様、公武合体を支持しており、藩政改革もその方針にそって行っていたからである。
東洋主導の藩政改革は保守派の抵抗にあいながらも着実に進んでいた。
文久2年(1862)に入って、2月に文武館が完成し、3月には文学・武芸の芸家世襲制度が廃止され、諸士の格式・身分制も改められた。しかし、東洋と敵対する武市は保守派と結託し、勤王党の志士(那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助)を刺客に送って東洋を暗殺した。東洋の死後、保守派と勤王党の工作によって藩庁からは改革派が退けられ、保守派と勤王党が実権を握った。
郷士には藩の政治に意見する権限はないが、勤王党は藩最大の組織であり、武市は黒幕となり実質上トップに立った。
謹慎が解けた容堂は保守派を追い出し、土佐勤王党の解党を命じて藩政を再び掌握した。文久3年8月18日(1863年9月30日)京都で会津藩・薩摩藩による長州藩追い落としの政変がおこり、佐幕派が復活。尊王攘夷派が力を失うと吉田東洋を暗殺した政敵・土佐勤王党の弾圧に乗り出し、党員を捕縛した。
首領の武市瑞山はその後切腹、多くの党員も死罪などに処せられた。脱藩した党員の中で上京して龍馬を頼り、勝海舟の門下生になった者も多い。
慶応2年(1866年)1月、坂本龍馬らの仲介によって薩長同盟が成立した。これにより明治維新へと時代が大きく動き出した。
容堂は幕府を擁護し続けたが、倒幕へと傾いた時代を止めることは出来なかった。龍馬が立てた、政権を朝廷に返す案「船中八策」を藩参政・後藤象二郎が容堂に進言した。政権を朝廷に返すことによって徳川家は一大名となり新政府内での発言力を温存しようとし、薩長の討幕の理由を失わせる一石二鳥の妙案だった。
容堂はこの妙案に飛びつき、15代将軍・慶喜に建白。慶応3年10月14日(1867年11月9日)これにより大政奉還が成立した。このとき薩摩は徳川討伐の密勅を受けていたが、朝廷はこの密勅を取り消さざるを得なかった。
しかしその後、文久3年8月18日の政変以来、朝廷に一大勢力を築いていた薩摩は王政復古の大号令を天皇が発することに成功し、幕府の武力討伐へと進んで行く。この間の11月15日、坂本龍馬、中岡慎太郎が京都近江屋で暗殺されている。王政復古以後、土佐藩は新政府内で発言力を持ち得なかった。この二人の死の重大さを容堂が知ったのは維新後だった。
その後明治政府樹立までの動きは、終始、薩摩・長州勢に主導権を握られた。薩長としては新政府における徳川家の影響力を排除することが絶対命題だった。
慶応三年12月9日(1868年1月3日)開かれた小御所会議に於いて、会議の前に既に発せられていた王政復古の大号令に対し容堂は徳川氏を中心とする列侯会議による政府を主張し、あくまでも天皇による親政を主張する薩長派の岩倉具視と激論となった。孤立し朝敵となることを恐れた容堂は休憩をはさんで後、沈黙。会議は親政・倒幕強行派のペースで進んだ。
土佐藩も容堂の抑えられるものでなくなり、慶応4年(1868年)に始まった戊辰戦争には土佐藩兵は加わらないよう厳命したが藩指揮官・板垣退助はこれに従わず新政府軍に従軍した。
容堂は幕末の時勢の中で奔走し、佐幕派にも倒幕派にも大きな影響を与えた。カリスマ性があり才能も行動力もある。が、決定力を欠いた。土佐二四万石藩主の立場がそうさせた。彼は熱烈な勤王家ではあるが、関ヶ原以来大恩ある徳川家にも忠誠を誓っている。当時の志士達からは、「酔えば勤王、覚めれば佐幕」と揶揄されたという。背反する朝廷と幕府の間で揺れ動き、最後には時代のエネルギーに押し潰されるよりなかった。
明治維新後の容堂は内国事務総裁となったが、かつて家臣や領民であったような身分の者とは馴染まず明治2年(1869年)辞職。しかし木戸孝允とは仲が良く自宅に招き明治政府の将来などについて語り合った。このとき木戸から「御国の坂本龍馬は・・・」という話題がしばしば出されたという。残念ながら龍馬は存命中、容堂にお目見得したことは一度もない。
自らを『鯨海酔侯(げいかいすいこう=鯨のいる海の酔っぱらいの殿様)』と称し、東京で妾を多数囲い、酒と作詩に明け暮れる豪奢な晩年を送った。連日、東京両国・新橋・柳橋の酒楼で豪遊し、ついに家産が傾きかけたが「むかしから大名が倒産したためしがない。俺が先鞭をつけてやろう」と豪語して家令の諌めを聞かなかった。
明治5年、積年の飲酒が元で脳溢血に倒れ、46歳の生涯を閉じた。
容堂は詩人としても優れ多くの作品を遺した。
その中で最も有名な「二州酒楼に飲す」という安政年間に詠まれた漢詩がある。大名の孤独と郷愁を詠ったものか。酒のCMに使われ、高知県人なら一度ならず聞いたことがあるだろう。
(以下読み下し文。元は漢詩)
昨(日)は橋南に酔い 今日は橋北に酔ふ
酒有り 飲むべし 吾酔ふべし
層楼傑閣 橋側に有り 【層楼傑閣=そうろうけっかく=立派な建物】
家郷万里 南洋に面す
(遠いふるさとは太平洋に面している)
眥を決すれば 空濶 碧茫々 【眥=まなじり】
(目を見開くとぼんやりとして何もない)
唯見る 怒涛の厳腹に触るるを
(ただ岩に砕け散る波が見えるだけ)
壮観却ってこの風光無し
(層楼傑閣は壮観だが故郷の風光はない)
顧みて酒を呼べば 杯すでに至る
(我に返って酒をたのむと、すでにそこにあった)
快なるかな 痛飲放恣を極むと
(浴びるほど酒を飲み、でたらめに乱れていると気分がいい)
誰か言ふ 君子は徳を修むと
(君子は徳行を修めるものだと誰か言っている)
世上解さず 酔人の意
(世間には酔っ払い《君子》の気持ちはわからない)
還らんと欲っすれば 欄前燈なほ明らかに
(帰ろうと思って橋の方を見ると、まだ灯りがついている)
橋北橋南 ことごとく弦声
(町中に三味線の音が響き渡っている)
慶長5年9月15日(1600年)関ヶ原の戦いは200年以上の時を超え各大名に多くの教訓を残し、それは江戸幕府倒幕運動へとつながっていく。
特筆すべきは、倒幕の主役となった薩摩・長州・土佐の各ケースである。
■薩摩の島津氏が西軍に付いたのは、当時の情報収集能力の欠如が原因と言われる。当時の島津氏は上方の情勢に疎かったがために西軍に付かざるを得ない状況となり、この反省から、以後薩摩藩は独立王国の様相を呈し始め、各地に密偵を配置し、情報収集力の増強に努めた。また越境してきた密偵は例え幕府関係者であろうと厳しく断罪し、情報の漏洩防止に努め、また密貿易によって外貨を蓄え続け、幕府に勝る軍事力を獲得した。このようなネットワークの増強は、後の倒幕運動にも生かされるようになり、薩摩藩は終始佐幕派を装いつつ、結果として秘密裏に薩長同盟を締結する事に成功した。
■長州の毛利氏の場合、中立の立場をとったにも関わらず減封という結果になり、長州藩内には徳川家への怨恨が強く蓄積するようになった。倒幕運動において最も激しい活動を見せたのはこの長州藩である。
長州藩は終始幕府への敵対心をむき出しにしその結果禁門の変を起こし、二度に渡る幕府からの征討を受けた。関ヶ原の戦いで生じた怨恨をストレートに徳川家にぶつけたのが、この長州藩であったといえる。
そのストレートさがゆえ、徳川慶喜は維新後・・ と怨みを口にしたそうだ。
■土佐藩の場合、この関ヶ原の戦いはその後多くの悲劇を生んだ。
関ヶ原では戦闘に参加することなく土佐に引き返した長宗我部盛親は家康に謝罪するが、この謝罪の前に親徳川派で異母兄の津野親忠を殺すという行為に出る。これは土佐半国が彼に与えられる可能性があると考えた国家老の独断だったといわれている。この行為を理由に家康は長宗我部氏を改易し、関ヶ原の戦いに功績のあった遠州掛川六万石の山内一豊に土佐二十四万石を与えた。(別の要因もあったようだが・・・)
![]() 長宗我部元親像 高知市長浜、若宮八幡宮 |
山内氏入国に際しては一揆が組織され、長宗我部氏の一領具足(下記参照)を中心に各地で激しい抵抗が続いた。これを鎮圧した山内氏は自身の家臣と長宗我部氏の家臣とを区別し、厳しい差別を与え続けた。
と司馬遼太郎氏は「酔って候」で書いている。
幕末期、武士としての活躍の場を与えられなかった彼らは自身のアイデンティティを求めて脱藩していった。藩への怨恨も少なからずあり、かつ藩主に対する忠誠心が希薄であったろうことも想像に難くない。
彼らの活躍により倒幕運動は一気に早まった。しかし活躍した多くの郷士達はそのほとんどが明治維新を見ることなく非業の死をとげ、明治新政府内で栄進したのは、吉田東洋門下の後藤象二郎や板垣退助といった上士にほぼ限られた。
結果として倒幕を行ったのは、徳川家におとしめられた長宗我部氏家臣の末裔たちではなく、徳川家によって余りある恩を受けた上士達であったという事は、歴史の皮肉としか言えない。
| 上士 (士格) |
家老 中老 物頭 馬廻 小姓組 留守居役 |
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| 白札 | 武市半平太 | |
| 下士 (軽格) |
郷士 | 坂本龍馬 |
| 用人 徒歩 組外 |
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| 足軽 | 岡田以蔵 | |
| 庄屋 | 吉村寅太郎 中岡慎太郎 |
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| 地下浪人 | 岩崎弥太郎 沢村惣之丞 |
郷士の源流は戦国時代の土佐の国主、長宗我部氏支配下の「一領具足」(下記参照)にさかのぼり、山内氏によって慶長郷士として一部は藩政に組み込んだ。しかし一領具足たちのほとんどは武士の身分を否定され農民となるしか道は無かった。
土佐藩では上士(掛川時代からの譜代の武士)と下士との身分の差が厳然とあり、そこから生じる対立によるトラブルが絶えなかった。俗に上士を”山内侍”、下士を”長宗我部侍”という。
下士が上士に昇格する道はなく、藩の政治に参加することも許されなかった。
下士は上司の住居である郭中には住めず町人の住む郭外に住んだ。
雨の日にも下駄をはくことは許されず、夏に日傘をさすこともできなかった。
また町人同様、”斬り捨て御免”の対象とされていた。
この事件が少なからず土佐勤王党結成の動機に影響を与えたといわれる。
江戸時代初期、一領具足の懐柔、新田開発、軍備補強を目的に”郷士”として士籍をあたえる政策が採られた。郷士に取り立てられるためには新田三町以上を開発することが条件だった。元禄年間(1700年前後)には郷士は千人前後を数えるまでになったが、その頃から貧窮や病気を理由に郷士の身分を維持できない者が郷士株を金銭で他に譲るようになった。譲られた者を”譲受郷士”譲った者を”地下浪人”という。(たとえば坂本家は譲受郷士、岩崎弥太郎の家は地下浪人)
郷士株の売買は貨幣経済の浸透によってさらに助長され、譲受郷士は当初農民だけに限定されていたが、特例として身分にかかわらず新規郷士の募集が行われ町人郷士が出現することになる。
明和七年(1770)才谷屋六代「八郎兵衛直益」は土佐藩西部の幡多郷士株を取得し長男、「直海」に譲って「郷士坂本家」を誕生させた。
領地と馬を所有し平時は農業に従事し、召集されれば戦に参加する長宗我部氏支配下の武士。具足や非常食を槍にくくりつけ、事あれば即座に軍務に服せる体制にあったことからこの名がついたといわれる。一領具足は半農半士ではあるが足軽などの雑兵ではない。騎乗の将校(士分)である。もっとも家来はいないが。
もともとの興りは大百姓を侍に組み入れて軍の人数を増やし、それをもって当時土佐国内でその覇権を争っていた安芸氏との決戦に臨むためといわれている。
同様の制度は他藩にもあったが土佐の一領具足が有名なのは彼らが他に比べて最も勇猛だったことによる。
一領具足の制度によってほぼ四国制圧を成した長宗我部氏だが、豊臣軍の侵攻にはなすすべがなかった。
豊臣軍の武将谷忠澄は元親に和睦に応じるように求めた。
「上方の軍兵は富み栄えたること、四国の相対すべきことにあらず。
四国は二十年の兵乱によりて、民屋を放火し、村里を打破り、(中略)五年三年の間には耕作農業も整はずして、五穀充満することもなからん。
民疲れ諸卒倦て、兵具馬具も切れ腐りてかかりたる物もなし。田牛行馬も痩せ衰えて、上方は武具馬具綺麗にして光り輝き、金銀をちりばめ、馬は大長にして眉上がるが如し。武者は指小旗を背にきつとさしていかめしき躰なり。
四国は十人が七人は土佐駒(下記参照)にのり、曲がり鞍を敷き、木鐙(あぶみ)をかけたり。武者は鎧毛切れ腐りて麻糸を以て綴り集めて着し、腰小旗を横たばりに指して上方の武者には似るべくもなし。国に兵糧乏しくして上方と永く取り合ふべき用意もなし。
彼我の甲乙を考ふるに、十に一つも相対すべきことなし。」
『南海通記』より
いくら「死生知らず」と言われた勇猛な一領具足でも、最新の装備を誇る秀吉軍の敵ではなかった。戦力差は歴然で、四国制圧が限界だったようだ。
長宗我部氏改易後、入国した山内氏は長宗我部氏の家臣登用をほとんど行わなかったが、高級武士達は他国に仕官できた者も多かった。が、土着の一領具足たちは士分を剥奪され、免租の特権も奪われて、農民になるしかなかった。一揆は各地で起こり討伐を繰り返したが、彼らの強硬な抵抗に手を焼いた山内氏は悪魔の所業ともいえる暴挙に出る。
一領具足たちは角力(すもう)好きで、というのも角力が武技の第一で、これの強者がその土地の有力者になる。そこで角力の大試合を催し、集まってきた有力者たちを一網打尽にしてしまえば一揆を起こす指導者がいなくなるという、子供だましの策略である。
かくして各地で予選が行われ、大会会場の種崎浜には各地の強者70余人が集まった。頃合を見計らって隠れていた鉄砲隊の一斉射撃によって一人残らず虐殺してしまった。
この後一揆はめっきり陰をひそめたという。いわば敵の主催する相撲大会にのこのこ出かける一領具足たちの心中はいかなるものだったか。田舎者ゆえの純情さ・・・・?
二代藩主、忠義のころから新たな開墾を条件として一領具足の郷士への登用が始まるが、これは下士に位置づけられ、山内家臣団の上士とは身分差があり大きな差別を受けた。この二重構造は幕末まで続くことになる。
戦国時代の土佐では、もっぱら「土佐駒」と呼ばれる馬が使用されていた。この土佐駒は粗食で耐久力、持久力があり農作業に適した馬である。また戦闘においても山岳地域の土佐では力を発揮した。
体高(肩まで)は四尺一寸(約123cm)ほどで他国の馬より少なくとも四、五寸(約12cm〜15cm)低く馬格も小さかった。現在のサラブレッドの体高が160cmほどであるから、いかに小さかったかわかる。この大きさは現代ではポニーに分類される。はじめて見た当時の他国人たちは「犬かと思った」と口をそろえる。
その後、この時期活躍していた馬は土佐駒に限らず、大型の外国産馬にとって代わられ姿を消した。
ちなみに騎馬隊というと、映画などでみる”武田の騎馬軍団”のように槍を構えた騎乗の武者が集団で突っ込み、一気に敵陣を蹂躙する、といったイメージがある。ところが、この時代こうした騎兵隊のような組織など武田に限らずどこの大名家にもなかったらしい。
「騎馬武者とは兵種(戦闘部隊の種類)ではなく、身分差を表すもので、合戦場までは馬でいくが、いざ戦いとなれば馬から下りていた」というのが一般的な戦だったようだ。