龍馬物語-誕生

龍馬誕生 天保6年(1835)11月15日

母・幸はお産の前に「龍が真紅の炎を吐きながら胎内に躍りこんだ夢を見た」といい、父・八平はこの話を聞き歓喜して「龍馬 直陰」と名付けた。生まれた時、龍馬は顔中一面に黒子があり、背中には馬のたてがみに似た毛が密生していたという逸話が伝わっている。母・幸は乳が出なかったのか、乳母・おやべの保育によって幼少時代を過ごしている。

明和7年(1770)才谷屋三代、八郎兵衛直益は郷士株を取得、長男八平直海を新規郷士として分家させ、本家は次男に継がせた。当時才谷屋は質店を生業としその後、酒・呉服・諸品の販売も手がけ城下屈指の豪商に成り上がっていった。

八平直海から三代目が龍馬の父、八平直足である。郷士坂本家は百六十石の領知を所有し、三人扶持切米五石 の家禄もあり、また本家才谷屋との関係から相当裕福な家だった。

坂本家系図

坂本家家系図龍馬誕生の時
父・八平39才
母・幸38才
長男・権平21才
長女・干鶴19才
次女・栄(不詳)
3女・乙女は4才

才谷屋
坂本家と才谷屋看板の下絵
維新前後、上士層を相手に貸金業を主な生業にしていたため士族の衰退により貸金回収が困難になり 明治中期に没落。この頃には才谷屋も坂本家も旅館や商家に分譲されていた。
明治末年撮影
本家才谷屋の看板の下絵 龍馬の兄 坂本権平
兄・権平
21歳年長の兄。明治4年没
龍馬の姉 乙女
姉・乙女
3歳上の姉。明治12年没

少年期

少年期の龍馬はけっして特別な存在ではなかったようだ。だだ坂本家は学問的伝統を尊び、龍馬の周辺は学問的雰囲気に包まれていた。

父八平は弓術・槍術は免許皆伝の腕前で書や歌にも優れ、文武両道を兼ね備えた士道の高い人だった。長姉・千鶴の夫・高松順蔵は歌人で居合術の達人であった。龍馬はこの義兄宅によく遊びに行き縁側から太平洋を眺めていたという。高松順蔵の長男・高松太郎は海援隊士で維新後、龍馬の名跡を継いだ坂本直、次男・直寛は龍馬の兄・権平の養子となり後に坂本家を再興している。

12才のとき母を亡くした龍馬は、三歳上の三女・乙女姉さんによくなつき、彼女が学問武芸の指導にあたったといわれている。乙女は一説には、身長5尺8寸(約174cm)体重30貫(約112kg)といわれ非常に大柄な女性だった。
「男勝りで剣術は切紙の腕前、馬術弓術水泳も得意で、また経書和歌絵画はもとより琴、三味線、一弦琴舞踊謡曲、浄瑠璃、琵琶歌などまことに多芸、多趣味」(坂本家系考)の人だった。龍馬にとっての乙女は、母親代わりであり親友であり同志だった。その信頼感は、脱藩後に乙女に宛てた多くの手紙を見れば明らかだろう。乙女宛手紙は長文が多く、大事な仕事のことや本音が書かれている。

●関連ページ=龍馬の手紙

継母・伊與の実家下田屋(川島家)は浦戸湾口のある種崎の藩御用商人で廻船業を営んでいた。当主・猪三郎にかわいがられた龍馬は、乙女と潮江から小舟に乗り、よく遊びに出かけたという。下田屋は大阪・下関・長崎に販路を持ち、当然外国の情報がもたらされていたから、少なからず龍馬の耳にも入っていただろうし、精巧な世界地図もあったという。太平洋を眺め、いつか外国へ行く夢を見ていたのかもしれない。

12歳の時、「楠山庄助塾」ヘ入塾したが半年後には退塾している。ある日、塾内で上土の子と口論となり、カッとなった上土の子(堀内某)に脇差で斬りかかられた。大事には至らなかったが上土の子はその罪科によって退塾させられた。それを聞いた龍馬の父が「龍馬にも罪がなかったとはいえない」として退塾させたものらしい。厳しいが公平な父・八平の姿が偲ばれる。どうも龍馬は勉強嫌いで、この後学問塾に行くことは無かった。母・幸を亡くしたのはこの頃。

14歳の時、「日根野弁治道場」に入門し小栗流剣術を学ぶ。19歳のとき「小栗流和兵法事目録」一巻を伝授され、江戸へ剣術修行に赴く。よほど剣術が性に合ったようで14歳からの10年間は剣術一筋の生活を送ることになる。

後に尊王攘夷志士と呼ばれ名をはせる郷士たちや上士たちは、幼い頃から朱子学や陽明学といった思想的学問を身につけていったが、龍馬にはそれがなかった。”龍馬は無学”といわれる所以だが、龍馬の自由奔放な言動は、前時代的な学問に縛られずに済んだことが影響を与えた、ともいえるのではないだろうか。