海援隊士 亀山社中隊士

長岡謙吉  土佐藩  天保5(1834)-明治5(1872)

医者の家に生まれた長岡は安政6年(1859)長崎に留学。シーボルトに医術を学んだ。龍馬とは遠縁にあたる。

文久元年(1861)シーボルトが国内追放された事件に連座して国許へ送還される。約半年の獄中生活の後、蟄居させられるが脱藩し再び長崎に行き、上海や香港を視察する。その後社中に参加し、文司として「海援隊約規」や「船中八策」の文書化などを手がける。また海援隊の出版事業である「閑愁録」「藩論」「和英通韻以呂波便覧」などを著したとも言われている。

社中、海援隊きっての学識者。慶応四年(1868)海援隊々長に任じられ、瀬戸内海諸島の鎮撫に力を尽くしたがわずか1ヶ月で三河県知事に転じた。ここで海援隊は役目を負え消滅した。

その後、大津監察、民部省、工部省に務めたが、明治5年(1872)6月11日将来を嘱望されたが若くして病死した。享年39才。

 

近藤長次郎(上杉宗次朗)  土佐藩  天保9(1838)-慶応2(1866)

生家は城下の菓子屋「大里屋」。仲間からは饅頭屋の長次郎と呼ばれていた。幼少の頃から学問を好み秀才の誉れ高く、藩に認められて藩士として取り立ててられる。神戸海軍操練所の設立準備から参加し操練所閉鎖後社中に参加。

慶応元年(1865)商才を発揮して長州藩のための最新ライフル、汽船ユニオン号購入を成功させた。(長州は幕府による経済封鎖を受けていたため)英国留学を画策していた近藤は長州藩からの報酬を私物化しグラバーの船に乗って出航を待った。しかし天候不良のため出航が延期され下船したところを社中の仲間に見つかり隊規違反を責められ、慶応二年一月十四、自刃した。

龍馬は近藤長次郎の死を悼み「術数あまりありて至誠足らず、上杉氏(近藤長次郎)の身を滅ぼす所以なり」と書いている。また「俺がいれば死なせずにすんだものを、残念なことをした」と言ったともいわれている。享年28才

 

陸奥宗光(陸奥陽之助)  和歌山藩  弘化1(1844)-明治30(1897)

脱藩後、神戸海軍操練所を経て社中に参加。

「我隊中の者は大小の物を取り上ぐれば皆路頭に立つ奴なれど唯陸奥陽之助一人は、食うに困る男に非ず」

と才気あふれる宗光を高く評価され、信頼厚く幅広い権限を与えられていた。同時に宗光もまた龍馬をよく理解していた人物だった。

慶応三年十一月十五日、龍馬、中岡慎太郎が暗殺されたとき、京にいた宗光は同志とともに、当時首謀者と目された和歌山藩出身の三浦休太郎を天満屋に襲撃するという血気盛んな面も持ち合わせていた。

「坂本は近代史上の一傑物にして其融通変化の才に富める。その見識議論の高き、其他人を誘説感得するの能に富める。同時の者能く彼の右に出るものあらざりき」と後に龍馬を評した。

明治政府では重責を果たしたが特に外務大臣として手腕を発揮した。特筆すべきは明治二十七年、イギリス、アメリカとの間にあった幕末からの不平等条約を改正したことである。

 

菅野覚兵衛(千屋寅之助)  土佐藩  天保12(1842)-明治26(1893)

安芸郡和食村の庄屋の三男。土佐勤王党に加盟。海舟門下。土佐人らしい剛毅で気骨ある人間性を龍馬に愛された。お龍の妹、君江と結婚したから龍馬の義兄弟でもある。

明治元年11月、白峰駿馬とともにアメリカ・ニュージャージー州のラトガース大学に留学。明治七年帰国し海軍省に入ったが、不遇であったようだ。龍馬の死後、お龍の面倒を良く見ている。

明治元年には郷里和食村で半年にわたり面倒を見、その後もお龍が横須賀に転居すると、何かと世話をやいている。

覚兵衛さん、三谷幸喜原作の「竜馬の妻とその夫と愛人」で
結構有名になってしまった。

ストーリー
明治13年。坂本竜馬(トータス松本)のかつての同士たちは今や政府の高官や軍の幹部に出世。その一人である菅野覚兵衛(中井貴一)は勝海舟(橋爪功)に竜馬の十三回忌に竜馬の妻・おりょう(鈴木京香)を出席させるよう頼まれ、彼女の許を訪れる。しかし、おりょうは西村松兵衛(木梨憲武)という男と再婚しながら、竜馬そっくりの愛人虎蔵(江口洋介)のもとに転がり込んだりしている始末。覚兵衛は、まずは松兵衛の許におりょうを取り戻すよう作戦を立てるが・・・
フィクションですが、かなりおもしろかった。これは映画のものですが舞台もやってましたね。まだ見てない方は是非。

 高松太郎(坂本直)  土佐藩  天保13(1842)-明治31(1898)

龍馬の姉、千鶴の長男、龍馬のおいにあたる。

土佐勤王党に加盟。海舟門下、神戸海軍操練所を経て社中へ。ほとんど龍馬と行動を共にしていた。

明治4年8月、朝廷の命に依って龍馬の家督を継ぎ永世十五人扶持を給せられ、名を「坂本直」と改めた。家督相続後、東京府に出仕して重職を歴任したが明治22年キリスト教を信奉したことで失脚し、高知に帰郷。晩年は不遇だった。

実弟、直寛(南海男)は龍馬の兄、権平の養子となり明治4年、権平死去をうけて坂本家家督を相続している。

 

白峰駿馬  越後長岡藩  弘化4(1847)〜明治42(1909)

越後長岡藩士の三男。海舟門下、神戸海軍操練所を経て社中へ参加し、龍馬にその才を認められ「大極丸」の若き船将をつとめた。

明治元年11月、菅野覚兵衛とともに米国に留学し造船・機械について学んだ。留学は6年に及ぶ。帰国後、日本最初の民間造船所である白峯造船所を設立し激動の時代何度も倒産、再建を繰り返した。

世上の富貴栄達を一切度外視し、自由奔放に激動の世を生きた。

 

沢村惣之丞(関雄之助)  土佐藩  天保14(1843)-明治1(1868)

地下浪人(土佐の武士の身分では最下級)の家に生まれた。

1862年3月吉村虎太郎とともに脱藩。同月、長州から密かに帰国し龍馬と再脱藩した。

海舟門下、神戸海軍操練所を経て社中へ参加。優秀な人で、航海術に長けていたという。

慶応4年1月、龍馬亡き海援隊は長崎奉行所を占拠。このとき酒気を帯びて抜刀し玄関で暴れている者を撃ち殺した。即死した暴漢は薩摩藩士であることが判明。是非はともあれ、薩摩藩との間に亀裂を生じさせるようなことは好ましくないとの判断から自刃してしまった。

辞世の句

 

中島作太郎(信行)  土佐藩  弘化3(1846)明治32(1899)

元治元年十一月脱藩。隊士の中では1番年少。社中を経て海援隊に参加。

若いが実務の才に長け龍馬の代理として「いろは丸事件」では紀州藩との交渉に尽力した。

龍馬が暗殺された後、陸援隊へ参加した。

海援隊の中では同年輩の陸奥宗光と気が合い、終生公私にわたる深い交際があった。

新政府では重職を歴任し明治二三年の第一回衆議院議員選挙に神奈川県から立候補して当選し、初代衆議院議長をつとめた。

 

池内蔵太(細川左馬之助)  土佐藩  天保12(1841)-慶応2(1866)

武市半平太の土佐勤皇党設立に尽力するが、なぜか血判書に名はない。土佐では岩崎弥太郎の門に学んだ。

文久三年五月、脱藩し五月十日長州藩による外国艦船砲撃に参加。

八月には「天誅組」に参加したが敗れ、主将の中山忠光卿を護衛して長州に逃れる。その後元治元年七月の「禁門の変」では忠勇隊に属して戦うなど歴戦の勇士である。

その後、亀山社中に入った内蔵太(くらた)を龍馬はその後継者にと考えていたようである。龍馬とは幼なじみで家も近かった。家族宛に其の消息を知らせる手紙を書くなど特別な気配りもしていた。

不死身かと思われた内蔵太だが慶応二年五月二日、社中所有の洋型帆船「ワイルウェフ号」を長崎から鹿児島へ回漕途中、暴風雨にあって海援隊誕生前に遭難死した。

龍馬は亀山社中の同志と共に五島列島中通島有川へ行き遭難した同志の墓を立て冥福を祈ったと伝わる。

 

石田英吉(伊吹周吉)  土佐藩  天保10(1839)-明治34(1901)

郷士、医者の息子。文久元年、医学を修めるために大坂に出て、蘭医の大家・緒方洪庵の門に入る。文久三年に脱藩し八月天誅組の大和挙兵に加わる。

元治元年七月の禁門の変では忠勇隊に所属、その後奇兵隊に参加するも龍馬から誘われ亀山社中に入る。

海援隊付属の「横笛丸」船長として海援隊の海運事業を担当。龍馬死後、長岡謙吉とともに瀬戸内海諸島の鎮撫に力を尽くし奥羽鎮撫総督府の参謀として秋田方面に出征して各地を転戦した。

その学識もさることながら池 内蔵太に勝るとも劣らぬ歴戦の雄である。

維新後は新政府に出仕し、重職を歴任。明治二三年には陸奥宗光農商務大臣のもと次官を務め、貴族院議員に勅撰された。

明治二五年十一月から三十年四月まで郷里高知県の知事を務めた。

 

関義臣(山本龍二) 福井藩支藩・府中藩  天保10(1839)-大正7(1918)

福井藩の支藩・府中藩士の二男。

福井藩校の「明道館」に学び、文久元年、府中を出て東西に歴巡。その後、江戸の昌平坂学問所に学び舎長になる。

慶応二年十二月、長文の意見書を携え長崎に龍馬を訪ね、意気投合し亀山社中の一員となった。

維新後は鳥取県・徳島県・山形県の知事を歴任し府中藩出身唯一の男爵になる。

 

新宮馬之助  土佐藩  天保9(1838)-慶応2(1866)

新宮村の農民の次男。幼少から画才に優れ、河田小龍に絵と学問を学んだ。このころ龍馬と出会い、文久三年一月、龍馬の紹介で勝海舟の門下生になる。

その後は海軍操練所を経て社中、海援隊へ。

新宮馬之助は色白の美男子で、何かのきっかけで上気すると直ぐに顔が紅味を帯びるところから「赤面の馬之助」と呼ばれていた。

維新後は軍に所属し海軍大尉にまで進んだが、その後第一線を退き明治二十年没した。