※龍馬との主な関わり、エピソードを書き留めました。人物の足跡、業績等にはほとんど触れていません。詳しくお知りになりたい方はリンク先のHPなどをご覧ください。
瑞山は文武に秀で人望があり、政治家としてスケールの大きな指導者だった。文久元年(1861)八月、江戸で土佐勤王党結成。龍馬もこれに加盟した。瑞山は龍馬の脱藩の決意を止めもせず、かわりに一編の詩をはなむけに贈った。
瑞山が「一藩勤王」の立場をとったのは個々の志士が個々に活動してもその実を挙げることは難しいとの考えだが脱藩という行為はその方針に反する。それにもかかわらず、最も信頼する同士である龍馬の脱藩を抑止せず逆に激励したのは、龍馬の秘められた資質を見抜いていたからだろう。
文久二(1862)年四月、参政吉田東洋を暗殺し藩論を尊王攘夷に転換させ藩主の上洛に成功したが、文久三年(1863)八月十八日の政変で京都の尊攘派が力を失い、公武合体派が台頭すると土佐勤王党への弾圧が強まり、志士たちが相次いで脱藩する中にあって動かず、投獄ののち慶応元年(1865)閏五月、志半ばで切腹して果てた。
上、半平太画像
左、半平太画像 公文菊僊作
右、自画像
切腹の前年に描かれたものと推定されている
花は清香に依って愛せられ 人は仁義を以って栄ゆ
幽囚何ぞ恥ずべき 只赤心の明らかなるあり
土佐北川郷の大庄屋の家に生まれた中岡は幼少の頃より向学心旺盛で勉学に励んだ。20歳の頃結婚し庄屋見習いとなる。安政年間,地震や疫病飢饉が続発したとき村民を守るため、我が身の破滅を招くほど手を尽くした。村人は神のように敬い感謝したという。慎太郎の死後も村民はこのことを忘れず明治44年彰徳碑を建てている。
文久元年、土佐勤王党に参加。文久三年九月脱藩し長州へ走った。
慶応元年に書かれた「時勢論」ではその後の薩長藩閥政権を見通している。龍馬の功績とされる薩長同盟の成立でも中岡はその地慣らしに大変な貢献をした。「中岡なくして薩長同盟なし」と言っても過言ではない。
その後、亀山社中が海援隊に改編されたとき中岡も陸援隊を組織する。龍馬と慎太郎はその目指すところは同じだったが目的を達成する方法論がちがっていた。龍馬はあくまでも無血クーデターを主張し慎太郎は戦いなくして倒幕はありえないと考えていた。海援隊と陸援隊は、まとめて「翔天隊」と呼ばれる。しかし中岡は陸援隊を実践指揮することはなかった。
慶応三年十一月十五日、龍馬と共に刺客に襲われ十七日絶命する。
土佐の山深い土地から身を興し私利私欲のない、まさに”草莽の志士”というにふさわしい人だった。
土佐藩参政
慶応二年(1867)1月12日、長崎の「清風亭」という料亭で後藤象二郎と龍馬との会談がもたれた。この会談に周囲は驚きを隠さなかった。山内容堂が勤王党を弾圧したとき後藤はその前線に立っていた。かたや後藤にとって社中のメンバーは伯父の仇である。(伯父、吉田東洋は土佐勤王党に暗殺された)世間ではもっぱら龍馬は騙されているのだといい、元土佐勤王党員たちは後藤斬るべしと息巻いた。だが二人は意気投合し、会談内容は定かでないがこの後、海援隊が発足する。
来るべき時代への参加に遅れまいと模索していた土佐藩に対し龍馬は「土佐の藩論が佐幕から脱却した」と認識した。
慶応3年10月3日大政奉還の建白書が後藤によって幕府に提出された。
その10日後、将軍慶喜は在京諸藩の重臣を二条城に招集。龍馬は登城する後藤に次のような激励文を送った。
(もし建白が受け入れられなければあなたは 切腹されるであろう。 自分もその場合は将軍を襲撃した後死ぬつもり なので、あの世でお会いしましょう。)
待つ龍馬のもとに後藤からの返書が届いた。
龍馬の唱えた大政奉還策は見事実現を見た。
乙女はそのりっぱな体格【一説には身長5尺8寸(約174cm)・体重30貫(約112kg)】に男をしのぐ腕力、それに加え剣術馬術弓術、水泳にも優れていて世間から「坂本の”お仁王様”」というあだ名をもらっていたそうだ。
龍馬が12歳のとき母幸が亡くなり、嫁に行くまでの10年間、時に優しく時に厳しく、母親代わりに龍馬の世話をみた。
妻お龍も後年そう語り残している。
龍馬から乙女に宛てた手紙は多数残されているが残念ながら乙女からのものは見つかってないようである。
晩年乙女は「独」と改名している。離婚し二人の子供とも離れ龍馬を失くした乙女にとって最もふさわしく感じられたのだろう。
嘉永5年(1852)、出漁中に遭難した土佐の漁民が11年余に及ぶ滞米を終え帰国。藩では、河田小龍を起用し、取り調べにあたらせたが日本語を忘れているため遅々として進まない。小龍は、漂民の中で教養があると見込んだジョン万次郎を自宅に連れかえり、起居を共にしつつ万次郎に読み書きを教え同時に万次郎からは英語を学んだ。
万次郎が語るこの11年余の滞米生活を挿し絵を加えて書き綴ったものを「漂巽紀畧」(ひょうそんきりゃく)という。
それから二年後の安政元年、最初の江戸での剣術修行を終えた龍馬は小龍を訪ねる。当時、小龍は土佐随一の新知識人と言われた。
小龍は「外国の大船を買い、同志を乗せ人、荷物を積み海洋に乗り出し航海術をまなぶ。そして外国との貿易によって利益をあげ国を富まし、異国に追いつく事が日本のとるべき道だ」と説く。
この土佐でこれほどの話が聞けようとは思ってもいなかった龍馬は驚きと自分の進むべき道が見えてきた思いだったろう。長岡謙吉ら海援隊士の多くが小龍門下である。
万延元年(1860年)、水戸藩の尊攘派らと密約を結び、同藩の周布政之助、吉田松陰の松下村塾門下の高杉晋作、久坂玄瑞らの先輩格として尊皇攘夷活動を指導する。しかしその一方で勝海舟、横井小楠ら開国派とも交流があった。
文久2年(1861年)5月には藩命によって京都へのぼり、長州藩の外交を担当する。長州藩の発言力の増大を恐れる薩摩、会津両藩による翌年の8月18日の政変によって京都での長州藩は駆逐されたが桂はその後も京都に潜伏し、新選組による池田屋襲撃では辛くも逃れるが、久坂玄瑞・真木和泉・来島又兵衛ら尊攘過激派の暴発を抑えきれず、禁門の変で敗退。潜伏ののち但馬出石に亡命した。
変装して二条大橋の下にひそむ桂のもと、芸者の幾松(のちの妻、松子)が握り飯を運んだというエピソードは有名。また、嘉永以来の同志が命を落とす中、生き延びたということから「逃げの小五郎」という異名もとった。
慶応2年(1866)正月、京都薩摩藩邸において、坂本龍馬らの斡旋で薩摩藩士小松帯刀・西郷隆盛らと倒幕の薩長連合密約を結んだ。このときの約束事を六か条にまとめ、龍馬に裏書を求めて綿々と綴った書簡に長州の立場と桂の実直な性格がよく表れているように思う。
幕府のお尋ね者であったため、旧名を捨て、藩主から木戸姓をもらい木戸貫治、次いで木戸準一郎、木戸孝允と名乗った。
維新後の明治政府では重責を果たしたが征韓論、台湾出兵に反対し薩摩藩閥(大久保利通ら)とはしばしば対立した。
晩年は体調がすぐれず、病がちであった。胃癌と伝えられる。明治十年(1877年)五月二六日、西南戦争のさなか、京都で死す。睡眠中に、突然、「西郷もたいがいにせんか!」と大声で叫んだことがあったという。墓は京都霊山にある。享年45歳。
文政6年(1823)1月30日--明治32年(1899)1月21日
文久2年10月、幕府の軍艦奉行並の頃、龍馬の訪問を受けた。龍馬にとって海舟は時局へ目を開かせ、活躍の場を提供した恩師といえる。海舟は『氷川清話』のなかで
「彼はオレを斬りにきた奴だったが、なかなかの人物さ。その時おれは笑って受けたが、落ちついていて、なんとなく冒しがたい威厳のある、いい男だったよ」と語っている。
”彼はオレを斬りにきた奴だった”というのは彼独特のリップサービスだろう。一緒に訪問した千葉重太郎の千葉道場は福井藩とかかわりが深く松平慶永の紹介を受けてのものだったらしい。
海舟は幕府要職にあり政情に明るく、咸臨丸での洋行体験もありその見識には驚かされたことだろう。龍馬はその場で門下生となる。その後龍馬の紹介で、多くの土佐藩脱藩浪士が勝の門下生となった。
海舟の主張である「一大共有の海局」とは幕府のための海軍ではなく、日本国全体のための国防力としての海軍の創設であり、ひいては日・韓・清の合従連衡による三国連合に発展させ、欧米の侵略に抵抗しようというものだった。(決して韓国、中国を支配しようというものではない)
文久3年5月、龍馬が姉乙女にあてた手紙を紹介する。(通称”エヘンの手紙”として有名)
達人海舟に認められているという得意を少年のように自慢している。
「一大共有の海局」の実現に向けて元治元年(1864)神戸海軍操練所を設立したが保守派から睨まれ、翌年操練所は閉鎖、軍艦奉行を罷免され失脚した。慶応4年(1868年 )戊辰戦争時には陸軍総裁として、後に軍事総裁として旧幕府の代表となる。官軍が江戸に迫ると徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城の無血開城を主張。官軍側の西郷隆盛との交渉に単身で臨み、江戸市中を戦火から救った。これは勝海舟の行った最も大きな仕事の一つと賞される。
維新後は勝安芳の名で伯爵、枢密顧問官となり、晩年は悠悠自適の生活を送りながらも、朝敵とされた慶喜の赦免、旧幕臣の生活保護に力を尽くした。
回想録として『氷川清話』がある。これは海舟の談話を記者が速記したものであり、海舟のざっくばらんな肉声により、幕末・明治の歴史を動かした人々の人物などが語られている。同書に収められた海舟の談話はしばしば自慢に走ることがあり、これは伊藤博文をはじめとする元勲の政治に対する無遠慮な批判とともに、晩年の海舟が煙たがられ、嫌われる一因ともなった。
勝が維新後に栄誉を受けたことを転身、裏切りとするこの手の意見は今も絶えないが、勝は徳川家には充分尽くしたのであり、また徳川家という狭い枠にとどまらず、日本のために尽くしたのである。 現に明治維新という急激な改革に不平士族たちが反乱を起こすが、最大の敵性グループであった旧幕臣たちはついに背くことはなかった。これは勝や大久保一翁、山岡鉄舟らの尽力によるものである。このことはもっと評価されてもよい。また日清戦争には始終反対をした。
明治32年(1899)1月21日脳溢血により亡くなった。
龍馬が西郷にはじめて会った時の印象を勝海舟に聞かれたときの返答がこれである。後に西郷はこう述懐している
お互いを認め合い信頼関係を築いていったのでしょう。
西郷は薩摩藩の下級武士の出身で,通称を吉之助、南洲と号した。大久保利通とともに,薩摩藩を公武合体から倒幕運動へと動かし,薩長同盟を成立させた。ついで、王政復古のクーデターを指導し、戊辰戦争では政府軍の総参謀として江戸城の無血開城を実現した。
明治政府では中枢を担ったが征韓論争に破れ、参議を辞した。「征韓論争」では”征韓”を西郷が主張したような記述があるが事実は少し違うようだ。西郷は自身が「特命全権大使」として韓国に赴き修交と和親を求めようとしたのだという。しかし広義的には”征韓”に組したといえなくもない。
●征韓論について興味がある方は読んでみてください。●無私の激突、征韓論〜西郷 対 大久保
その後鹿児島に帰って私学校を開き,士族の子弟を教育した。明治10(1877)西南戦争に散る。
「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば天を敬するを目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ我を愛する心を以て人を愛する也」(南洲翁遺訓より)
西郷が生涯の信条とした「敬天愛人」の思想と生き方は現在も多くの人々に感動を与え続けている。
文化6年(1809)8月13日--明治2年(1869)1月5日
横井小楠は文化六年(1809)年肥後熊本(現在の熊本県)に、藩士の次男として生まれる。
小楠は鎖国体制・幕藩体制を批判し、それに代わり得る新しい国家と社会の構想を「公共」と「交易」の立場から模索した。万国平等という普遍主義思想のもとに国内的には公武合体論を唱え、さらに国家は民衆のものであるという共和制をも射程に入れた先進的な思想の持ち主だった。
時代に卓越した小楠の思想が熊本で受け入れられるはずもなく自藩では冷遇されたが、安政五年(1858)越前福井藩主松平慶永(春嶽)の政治顧問として招かれ福井藩の藩政改革に同藩の三岡八郎(由利公正)らと取り組み殖産興行、軍備強化、開国貿易を主軸とする富国強兵論に基づく政策を推進し改革の実をあげた。さらには文久二年1862)幕府の政事総裁職に任じられた春嶽の助言者として幕政改革にかかわった。
龍馬が小楠をはじめて訪問したのは勝海舟訪問前後の文久二年頃と思われる。以後死に至るまで最も尊敬する思想の師となった。龍馬のもう一人の師、勝海舟もまた小楠を最も尊敬していたという。
文久二年(1862)十二月十九日、急進的尊攘派の肥後勤王党による暗殺未遂事件が起こる。その日小楠は肥後藩士吉田平之助、都築四郎と宴を開いていた。そこへ三人の刺客が踊りこんできた。小楠は刀を床の間に置いたまま脱出、越前藩邸に走り刀を取って引き返してきたが刺客は逃亡、都築は手傷を受けただけだったが吉田は死亡した。翌文久三年八月、肥後へ帰国した小楠は十二月十九日、士籍剥奪、知行召し上げという厳しい処分を受けた。いわゆる”士道忘却事件”で以後明治新政府からの招きを受けるまで蟄居することになる。
元治元年(1864)二月、海舟と長崎に随行した龍馬は海舟の内意を受け四月八日、小楠が蟄居する寓居「四時軒」を訪問する。当時の最新情報を伝えるとともに経済的に困窮していた小楠に金品を届けるためだった。このときの二人の談論内容は不明だが有名な逸話が残っている。
辞去する龍馬を見送って小楠はこう忠告したという。偉才は偉才を知るというべきか、龍馬の先鋭的で飛躍的な思想や行動が誤解を招きかねないことを心配しての言葉であったろう。
この訪問時、小楠は左平太と大平という二人のおいの将来を龍馬に託している。小楠の龍馬に対する評価と信頼のほどがうかがえる。龍馬はこの二人を伴って神戸の海軍塾に入れて教育にあたった。海軍塾閉鎖後は長崎語学所に入れて英語を学ばせ慶応二年四月にはアメリカへの留学に便宜を図っている。龍馬は小楠の期待にこたえ要請をまっとうしたのである。
明治元年(1868)閏四月、岩倉具視の懇望により新政府に参与として出仕するが、翌年一月五日参内の帰途、新政府の洋化政策推進の筆頭者とみられて、十津川郷士らによって暗殺された。小楠の無念の横死は時代に早すぎて登場してきた偉大な思想家の悲劇だった。
陸奥宗光ほか海援隊士は「海援隊士」のページをご覧ください。