龍馬物語-暗殺

龍馬に危機感はあったのか

暗殺前、身の危険を感じていた龍馬は

と慶応三年(1867)の十月十八日付望月清平宛て手紙に書いている。

当時龍馬は材木商・酢屋の二階を借り、海援隊・京都事務所を置いて拠点としていたが、幕吏に目を付けられていたため、醤油商・近江屋に移っていた。

主人・新助は土佐藩士や尊攘志士を支援する土佐藩御用商人。斜向いに土佐藩邸がある。

十一月某日、高台寺党の伊東甲子太郎【元新撰組幹部で11月18日、新撰組によって暗殺される】の訪問をうけ「新撰組が狙っているので、くれぐれも気をつけられよ」と忠告も受けていたといわれる。【真偽不明】

寺田屋七代目・伊助(お登勢の長男)は明治三十七年、時の逓信大臣・大浦兼武に「伏見寺田屋の覚書」を上申している。これには・・・

と、書かれているという。この覚書は昭和十七年、雑誌・伝記5月号に掲載された。

これが本当だとすると、若年寄・永井 尚志【永井と龍馬とは心安い間柄】会津藩主・松平容保と面会し、命の保証を取り付けていたということになる。

当時、身の危険を感じていたのか、いなかったのか、よくわからないのだが、龍馬は気ままに出歩き、随分と周りの人たちにたしなめられていたという。そんな調子だから近江屋にいることは、探索を続けていた見廻組にすぐに知れたと見るべきだろう。


龍馬暗殺を実行したのは誰なのか

これについては、京都見廻組与頭・佐々木只三郎以下数名というのが定説になっている。他にもいろいろと取り沙汰されているが、動機はあっても証拠があやふやで今一説得力に欠ける。

十一月十五日夜、龍馬は中岡慎太郎と近江屋二階にいるところを急襲された。龍馬は頭部に致命傷を受け未明、息をひきとった。中岡は一時回復したかに見えたが、十七日容態が悪化して亡くなった。現場にいち早く駆けつけた土佐藩士・谷干城は中岡からことの経緯を聞きだし、また中岡死後の捜査の結果、新選組だと確信したという。余談だが慶応四年四月、流山(現在の千葉県流山市)で新政府軍に投降した新撰組局長・近藤勇を斬首獄門に処せ、と強硬に主張したのも谷であり、彼にとっては龍馬・中岡の敵討ちだった。谷が暗殺者は新撰組と決めつけた証拠というのは・・・

  1. 中岡が「こなくそっ!」という伊予弁の掛け声を耳にしている。
    【又は土佐西部地方の訛り。「こげなくそっ」という薩摩弁もある】
  2. 現場に残された黒いロウ色の鞘が新撰組の原田左之助(伊予藩出身)のものとの証言を高台寺党の残党から得た。
  3. 二人に反撃の時を与えず、手練れの集団である。

ということらしい。この後明治後期まで世間では、龍馬暗殺は新撰組のやったことと思われていた。

京都見廻組説

土佐藩士・谷干城
土佐藩士・谷干城

箱館戦争、その他で捕縛・降伏した元新撰組隊士たちは龍馬暗殺を糾問されている。獄死した者もいるというから、かなり過酷な取調べだったようだ。その中で大石鍬次郎は厳しい詮議に耐え切れず一度は自白するが、後に前言を撤回し見廻組の仕業であるとして「今井信郎・海野某・高橋某・外一人の4人で実行し、これは局長・近藤勇も承知している」と証言した。 他にも元新撰組隊士の見廻組関与の証言があり、見廻組・今井信郎も暗殺に関与したと自白した。
しかし近江屋事件は新撰組の仕業ということで決着しており、局長・近藤勇、実行犯として名の挙がった原田左之助、今井が挙げた暗殺関与の6人全員すでに、この世の人ではなかった。
そして、この今井の自白は、隠蔽され表に出ることは無かった。

それから30年後の明治三三年「近畿評論」という雑誌の5月号第17号に「坂本龍馬殺害者(今井信郎実歴談)」が元甲斐新聞編集長の岩田鶴城によって寄稿された。

これが世間で大変評判を呼び、また一方では、今井の売名行為だと批判された。特に谷干城の批判は激烈だった。谷は暗殺者は新撰組だと確信していて、政府高官でありながら、明治三年の今井供述を知らされてなかったのだ。

実はこの近畿評論の「今井信郎実歴談」は元々甲斐新聞に連載されていたものを岩田鶴城の名で掲載したもので、今井から聞き取ったのは岩田鶴城で はなく、「甲斐新聞」の主筆をつとめていた結城礼一郎だった。

このときの経緯を大正13年(1924年)7月、結城礼一郎は「お前のおぢい様」と題して、書き残している。

それによると、今井が結城礼一郎の父・結城無二三(元甲陽鎮撫隊)を尋ねて来て一晩話して行った事があった。そのとき・・・・

結城無二三 『彼が坂本龍馬を斬った人だ、参考のためによく聞いておくがいい』

今井信郎 『いや詰らん事です。お話しする程の事ではありません』

結城礼一郎がどの部分をどう捏造したか、その詳細は不明だが、こういう場合、今井にしても聞く側の”期待”に応えようと”事実も多少修飾し、龍馬を斬った瞬間の光景なぞ大いに芝居がかりで・・・”話しても不思議ではない。

また、礼一郎は「今井から聞いた話をそのまましまっておくのは勿体ないと思ったから、少し経って甲斐新聞へ書いた」と弁解しているが、この実歴談はかなりの長文で、世間話のようにその場でただ聞いていたのではなく、当然口述筆記していたはずだ。今井は充分にこの談話が世に出ること、新聞に書かれることを前提にしゃべったと思われる。相手は新聞記者なのだ。

「今井は新聞に掲載されるとは夢にも思わず、本当のことを喋ったのだ。明治三年の自白は罪を軽くするために見張り役と供述した」と好意的にこの証言を信じる意見もあるが、どうだろうか。もう明治も33年が経過し、龍馬暗殺を自分の手柄にしても、お上からお咎めを受ける心配も無い、と考えるほうが自然な気もするのだが。

明治三年の兵部省および刑部省取調べでの今井供述と、明治三三年の近畿評論・今井信郎実歴談とは、整合しない部分、つじつまが合わない部分が多々あり、証言の信用を貶めているのは残念なことだ。特に近畿評論での龍馬・中岡殺害場面は、”修飾”されているとはいえ、実際に二人の遺体に残された刀傷痕とは違いすぎる。今井は部屋に入っていないのではないか。

また、「今井信郎実歴談」では「六畳の方には書生が三人いて」近江屋・新助の証言(伝聞)では「小僧が三人いた」谷干城証言では「藤吉以外誰もいなかった」という。今井・近江屋・谷、三者の証言の食い違いもあり益々混乱するばかりだ。

また見廻組には渡辺篤という、別に暗殺を告白した人物がいるのだが、渡辺篤証言には今井の名があり、今井のいう”外にモウ一人”とは渡辺篤のことなのか?これについてはまた次回に。


黒幕はいたのか

この事件は幕末最大のミステリーといわれ、数多くの研究家や作家たちがこの謎に迫った。数多くの説が唱えられたが、どの説も多くを納得させるだけの証拠を提示できないでいる。

1.薩摩藩説

武力討伐派にとって龍馬は余計なこと(大政奉還を建白させた)をした、いわば裏切り者として映った。大政奉還の上奏文が朝廷へ提出された14日、薩長は朝廷から徳川討伐の密勅(偽勅)を受けていた。薩長のシナリオは、戦いを起こし、幕府軍を賊軍として追い詰めた後、大政奉還させる。そうすれば徳川家に新政府内で発言権を与えずに済む。このシナリオを台無しにされた薩摩藩が京都見廻組に依頼した、という説。

2.紀州藩説

慶応三年(1867)四月、龍馬以下海援隊士が乗船する「いろは丸(168t)」と紀州藩船「明光丸(887t)」が衝突事故を起こし「いろは丸」は沈没してしまう。

龍馬は「万国公報」による審理を要求し、結局土佐藩に屈した形で紀州藩側が八万三千両(のち七万両に減額)を支払うことで決着した。この時の経緯にお互い感情的な場面もあったようで、御三家としてのプライドを傷つけられ怨恨を残したからではないかということらしい。

龍馬が暗殺されたとき、京都にいた陸奥陽之助ら同志は、当時首謀者と目された紀州藩出身の三浦休太郎を天満屋に襲撃する事件を起こした。


龍馬の墓地と命日

京都霊山 龍馬墓
京都霊山、龍馬、慎太郎墓所

11月18日、京都の霊山(りょうぜん)に葬られた。この時、海援隊や龍馬を支持する仲間たちが暗殺現場の河原町三条下ルから葬列を組み墓地へ向かったという。墓地には龍馬のほか共に暗殺された中岡慎太郎、従僕・藤吉の墓も並んでいる。

誕生日は諸説あるようだが、ここでは11月15日を採る。

亡くなった日に関しては、襲撃された後、翌日未明まで生存していたので厳密には16日。龍馬墓碑裏面にも「慶応丁卯十一月十六日闘死」とある。寺田屋・お登勢のつくった位牌にも十六日とあるという。しかし十五日が通説になっている。

○関連ページ=龍馬マップ 龍馬・慎太郎墓