お龍の生涯

お龍
若かりし頃
お龍と思われる写真
お龍と見られる座姿の写真
この顔とよく似た美人芸者の写真があり特定できてないようである
お龍、晩年の写真
晩年の写真 (明治33年撮影)

1840-1906 楢崎龍 西村つる

お龍の父、楢崎将作は勤王家で、安政の大獄に連座して獄死。

お龍は母親や弟妹を養うため、龍馬たち勤王派の人達の炊事を手伝ったり京都の料理屋で働いたりしていた。龍馬は楢崎家でも料理屋でもお龍に会ったことがあり、元治元年(1864年)苦しい生活を助けるため龍馬の世話で寺田屋に預けられる。

慶応元年一月、薩長同盟を終えて寺田屋に投宿していた龍馬が襲撃された際には、風呂に入っていたお龍が幕吏に取り囲まれたのをいち早く知り、裸で二階の龍馬らに急を告げた。龍馬と三吉慎三は応戦し、お龍は伏見の薩摩藩邸に走り救援を求めた。

こうして難を逃れた二人は事件後、時を経ず中岡慎太郎の仲人(西郷隆盛説有)で結婚し(内祝言は元治元年八月という説有)西郷の勧めもあって薩摩へ湯治に出かける。これが日本初の新婚旅行だといわれている。

慶応三年九月、下関で龍馬に会ったのが最後となった。

龍馬暗殺の知らせを下関の伊藤助太夫宅で受けたお龍は気丈に振舞っていたが、法事を済ませ髪を切り落として仏前に供え号泣したという。

それからしばらく三吉慎蔵らの世話になっていたが、墓参りのため京都に向かった。近江屋に泊まり龍馬の霊を弔った。

明治元年七月、土佐の龍馬の実家に迎えられるが一年ほどで土佐を離れることになる。兄夫婦や乙女に疎んじられたためという説もあるが環境があまりにも違いすぎて水が合わなかったというところだろう。

土佐を離れて京都に帰り、東山の霊山のの麓に室屋を営んだ。そこは龍馬の墓のすぐ近くであり、墓守をして菩提を弔おうとしたのであろう。だが生活を維持できず、明治五年頃、龍馬の旧友を頼り上京する。

東京では香川敬三(水戸藩出身、陸援隊)らが持ち回りで世話をみてくれた。(晩年「優しくしてくれたのは西郷隆盛だけだった」と憎まれ口をたたいている)しかし、いつまでも彼らの行為に甘えるわけにもいかず自活の道を求めて旅館の仲居などをしていたが、その折用いていた変名が”つる”ではなかったかという。

ついで、お龍は大道商人、西村松兵衛と再婚(入籍は明治八年)して横須賀に住んだが、失意を紛らすため大酒を飲み、酔うと口癖のように「私は龍馬の妻だった」とつぶやいたそうだ。この間、松兵衛との間に子をもうけたが残念ながら幼くして亡くしてしまった。

横須賀の生活も満足なものでなかったが、晩年は貧しいながら穏やかに暮らしたようだ。

明治三九年没
「贈正四位坂本龍馬乃妻龍子乃墓」
龍馬の妻であることを明記するこの墓碑銘は、お龍にとって最高のはなむけになったことだろう。


佐々木高行(土佐藩)はお龍の魅力を日記にこう記している。

破天荒な言動は、当時の女性からは大きくはみ出していたようで武勇伝には事欠かない。

十八、九の頃、お龍の留守中に借金の証文を手にした悪党が現れ、妹君枝を大坂の女郎屋に、妹光枝は京都島原に連れて行かれた。それを知ったお龍は着物を売って金を作り、ふところに短刀をしのばせて大坂に飛ぶと刺青のあるやくざ相手に直談判した。「殺すぞ」と脅されても「殺せ。殺せ。殺されに大坂まではるばる下りておる。それはおもしろい。殺せ。殺せ」とわめき無事妹を助け出したそうだ。

あまりよい評判を聞かないお龍ではあるが

とは、司馬遼太郎氏の至言である。