龍馬物語-成就

薩長同盟(盟約)

文久三年(1863)八月十八日の政変、翌元治元年(1864)の禁門の変、下関戦争(英米仏蘭連合艦隊による下関攻撃=馬関戦争)によって疲弊し薩摩を憎む長州藩と薩摩藩の両大国が和解、連合しなければ幕府に対抗することはできず日本の将来はない。

慶応元年(1865)四月十二日、幕府が「第二次征長令」を発す。この頃から龍馬、中岡慎太郎らは薩長和解、連合の周旋をはじめる。薩長連合の構想はなにも龍馬、慎太郎の専売特許ではない。幾多の者がこの連合の周旋を試みた。が、誰も成し遂げられなかった。

薩長和解、連合は薩摩の西郷、長州の桂(木戸孝允)との龍馬、慎太郎との厚い信頼関係によるところが大きい。

慶応元年(1865)四月二二日、龍馬は西郷とともに薩摩に向かう。このとき薩摩で「第二次征長」への出兵拒否の藩論が決定し、薩長和解周旋を依頼される。

滞在期間中、西郷の屋敷に宿泊したときのエピソードがあるので紹介する。

ある日、龍馬が西郷のいと夫人「古いふんどしをくださらぬか」と頼んだ。そこで、いと夫人はいわれるままに古ふんどしを与え、帰ってきた西郷にそのことを報告すると目の玉の出るように叱られた。「お国の為に命を捨てようという人だと知らないか。さっそく一番新しい物と代えて差し上げろ」と。「西郷があんなに怒ったのはあの一度だけだった」と、いと夫人は述懐している。

薩摩を後にした龍馬は各方面で根回しに奔走する。龍馬と中岡慎太郎は西郷と桂両者に下関で会談する約束を取りつけることに成功した。閏五月、中岡が薩摩に行って西郷を伴い下関に向かう。しかし佐賀関で大久保から西郷に至急上洛を求める知らせが入り、西郷はそのまま京都へ。すっぽかされた桂の落胆は相当なもので一段と薩摩不信を募らせた。薩摩もまた長州に対して「長州は徳川に取って替わり毛利政権を打ちたてようとしているのではないか」という疑念を払拭できずにいた。だが龍馬は諦めなかった。ここで亀山社中が活躍することになる。

長州は幕府による再征を前に武器が欲しかったが朝敵の汚名をきせられて外国の貿易商と取引ができない。それを薩摩藩名義で買い入れてもらうことで最新武器や軍船ユニオン号を手に入れた。一方薩摩は京都出兵兵士の食料を長州から買い入れることを提案し、両藩の交流が次第に信頼関係を築きはじめた。龍馬、中岡慎太郎らの周旋しゅうせんの努力が実りはじめたのである。

十二月末、桂は薩摩の黒田了介の迎えをうけて上京した。

慶応二年一月八日、桂は京都の薩摩藩邸に入った。しかし桂はもてなしばかり受け、会談はもたれずにいたという。
これは第一次征長戦後の長州処分問題が決定していなかった、ということもあったようだが、強い立場の薩摩側から持ちかけなくとも良いとの考えからだろう。
何度か薩摩藩に煮え湯をのまされ苦境にあえぐ長州側としては薩摩に頭を下げてまで救いを乞うことはできなかった。

翌年一月二十日、桂が帰り支度を始めたころ龍馬もようやく薩摩藩邸に入ったが、未だ会談が開かれてないことに驚く。

龍馬は桂に、

となじった。桂は、

龍馬は感動に目を潤ませ、西郷に会い無情を責めたという。

翌二一日、龍馬らの立会いのもと悲願の会談が持たれた。開口一番、桂は過去長州に対してとり続けた薩摩の行動を痛烈に批判した。「虚心に手を握り合うためにいっておきたい。それで事が破れるような連合なら無理やり成立させても無駄だ」という悲壮な決意だった。黙ってそれに耳を傾けた西郷の寛容な理解がなければ薩長連合はこのとき実現を見ることができなかったかもしれない。

慶応二年一月二一日、念願の薩長同盟が成立した。
両藩とも同盟こそが討幕を可能にさせるという認識を持っていたので、龍馬でなくともいずれ同盟は結ばれていただろう。だがこの同盟が遅れれば遅れるほど国内は混乱し、西欧列強につけいる隙を与えていただろう。

平尾道雄氏は『龍馬のすべて』のなかで

と語っている。

慶応二年一月二一日、薩長同盟成立時に文書は交わされなかったようだ。そのため長州の桂は龍馬に同盟内容の確認と裏書を求めて手紙を送った。

薩長同盟条文 現代文意訳

坂本龍馬裏書書簡
龍馬が桂から届いた上記内容の手紙に裏書し送り返したもの
坂本龍馬裏書書簡表に御記被成候六条ハ、小・西両氏及、老兄・龍等も御同席ニて論談セシ所ニて、わずかも相違無之候、後来といへども決して変り候事無之そうろうなきことこれハ、神明の知る所ニ御座候 丙寅二月五日 坂本龍

※文中、小は薩摩藩家老・小松帯刀、西は西郷、老兄は桂、龍は龍馬

■薩長同盟の呼称について
この時の薩長の結びつきに関して、当事者たちがつけた名称は存在しません。そのため、「薩長○○」という呼び方は、のちの研究によってつけられた呼称です。従来は「薩長連合」「薩長同盟」という表記が主流でした。(学校教科書では主に「同盟」を使用。)しかし近年、薩長が合意した六箇条の内容を再検討する研究が行われた結果、「薩摩藩が○○の行動をする」という内容であり、長州側の行動に関する内容が含まれていないことが、着目されました。この場合、「同盟」(国家が互いに共同の目的のために同一の行動をとることを約すること「広辞苑」)とは言い難く、「盟約」(固く誓い、約束すること「広辞苑」)と呼称した方が適切なのではないか、という意見が増えつつあります。しかしながら現在、他の呼称も含めて、統一・確定するまでは至っておりません。
■締結日について
薩長同盟(盟約)は、あくまで薩長の代表が口頭で約束したものであり、正式な条約文書を取り交わしたり、署名等をおこなったりはしておりません。そのため、どの時点をもって締結日とするかを示す明確な史料はなく、当事者たちの行動等の状況証拠から、21日説と22日説に分かれています。
*以上「NHKその時歴史が動いた 幕末・土佐勤王党 不滅の志」より引用


寺田屋

寺田屋のある伏見は京都と大阪を結ぶ船交通の要所であり、寺田屋は薩摩藩士の定宿だったが、尊皇攘夷志士が出入りし、伏見奉行所や新撰組も警戒していた船宿である。

長府藩士・三吉慎蔵
三吉慎蔵
寺田屋・お登勢
寺田屋・お登勢
現在の寺田屋外観
現在の寺田屋外観
寺田屋前と思われる古写真
寺田屋前と思われる古写真(寺田屋所蔵) 

慶応二年1月23日、同盟を成功させた龍馬は寺田屋に投宿した。宿では三吉慎蔵が待っていた。

三吉慎蔵は長府藩士(長州藩の支藩)で槍の遣い手、長州藩が龍馬の護衛役に付けていた人で龍馬も心を許し信頼していた人物。

その夜未明、伏見奉行所の捕吏数十名に取り囲まれるが、いち早く階下にいたお龍が気付き、階上の龍馬に急を知らせたため不意を突かれずにすんだ。(この時お龍は風呂に入っていて裸同然で二階に駆け上がったといわれている)

と、お龍は晩年「千里駒後日譚」に語り残している。

龍馬は階段を上がってこようとする捕吏に自分らは薩摩藩士であると告げたが聞く耳を持たず、多少の問答の末、部屋に入ろうとする捕吏に対し、高杉晋作から贈られたというピストルで三吉と応戦した。数発発射し、少なくとも一人を射殺たようだ。このとき龍馬も左の指を負傷したが、敵がひるんだ隙に屋根づたいに隣家の戸を破って逃走し一時、二人は濠川沿いの材木屋に隠れた。

いち早く伏見薩摩藩邸に急を知らせに駆け込んだお龍と三吉慎蔵の通報から薩摩藩士が救出に向かい無事、伏見薩摩藩邸へ逃げのびることができた。

兄の権平に送った手紙には、このときの様子が記されている。

「上に申す伏見の難は去る正月二十三日夜八ッ時半(午前3時)ごろなりしが、一人の連れ三好慎蔵と咄して風呂よりあがり、もはや寝んと致し候ところに、ふしぎなるかな人の足音がしのびしのびに二階下を歩くと思いしに、六尺棒の音からからと聞こゆ。

また事件後の二月六日に桂小五郎に送った手紙にもこのときの様子が記されている。寺田屋受難の図

のちに姉乙女への手紙には「この龍女がおればこそ、龍馬の命は助かりたり」と書いている。


新婚旅行

龍馬・お龍の霧島登山の様子寺田屋事件後、時を経ず中岡慎太郎の仲人で(西郷隆盛説有)お龍と正式に結婚し(内祝言は元治元年8月という説有)湯治を兼ね新婚旅行で薩摩を巡った。これが日本初の新婚旅行だといわれている。

大きな仕事を成し遂げた龍馬にとって心休まるひと時だったろう。

右の画像は薩摩から土佐の乙女に宛てたものの一部。霧島登山の様子を絵入りで事細かに説明がされている。


海援隊

海援隊旗 海援隊の船印
海援隊旗 海援隊の船印

清風亭会談

慶応三年(1867)一月十二日、長崎の「清風亭」という料亭で土佐藩参政後藤象二郎と龍馬との会談がもたれた。

これに先立ち、この会談を後藤に勧めた溝淵広之丞の「藩士の義務を放棄して国外で活動しているのはなせか」と心境を尋ねる手紙にたいし龍馬は次のように答えている。

社中の土佐藩出身者は多くが土佐勤王党出身で山内容堂が勤王党を弾圧したとき後藤はその前線に立っていた。

かたや後藤にとって社中のメンバーは伯父の仇である。(後藤は勤王党に暗殺された吉田東洋の甥)。その二人が会談をもつことは周囲の者にとって大変な驚きだった。「後藤斬るべし!」と息巻く者も少なくなかった。

話は変るが当時、海援隊に佐幕派の小谷耕蔵という隊士がいて、彼をせめる隊員に龍馬は「一人の異端者を包容できないで何ができるか」とたしなめたという。

仇敵、後藤象二郎をも内包してゆく。

明治三十年(1897)七月末、陸奥宗光(海援隊士・明治政府要人)が余命いくばくもない病床で「世界之日本」の記者に口述筆記させた絶筆「後藤伯」(後藤象二郎伯爵のこと)に清風亭会談について語った一節があるので紹介する。

来るべき時代への参加に遅れまいと模索していた土佐藩は前年、富国強兵策の一環として長崎での貿易を拡大するため「開成館」を設立する。これを成功させるため社中を取り込むことが得策と考えたことは容易に察しがつく。会談内容は定かでないが、龍馬は土佐の藩論が佐幕から脱却した、あるいは脱却すると認識した。

龍馬は後藤に騙されているのだという噂が土佐にも広まり心配した姉、乙女からの手紙に答えたもの。

実はこの頃、亀山社中の台所は火の車で、長州藩のために薩摩名義で買ったユニオン号の運用を社中に任せてもらう予定が反故になり、それにかわる船としてワイルウェフ号を手に入れたが、暴風にあって乗組員12人と共に沈んでしまった。

船も金も無い八方ふさがりの状態で、ハード(船)はあるがソフト(船乗り)の不足している土佐藩とその逆の社中の融合は双方にとって好都合だった。

亀山社中は薩長同盟締結には非常に貢献したが、商売としては失敗に終わったといわざるを得ない。

四月、龍馬を隊長とする海援隊が誕生した。海援隊の第一期メンバーは、水夫たちを含めて約50名だった。

藩は社中を取り込んだという認識だったろうし、世間もそうだったろう。しかし龍馬は”利用される”ということに頓着がないというか、意に介してないところがある。それが龍馬の大きな魅力の一つだと思う。

海援隊は亀山社中を発展させたものだが、社中には明文化された具体的な運営目標が無かった。龍馬は約規によって、隊の体制・目標を確立しようとした。

海援隊約規

1.隊士の資格と隊の目的
本藩(土佐藩)を脱する者、及び他藩を脱する者、海外に志のある者がこの隊に入る。運輸、射利(利益)、開拓、投機を行うことによって本藩の応援をすることを目的とする。今後も自らの志に従って入ることができる。


2.隊長の権限
隊中のことは一切隊長の処分に任す。決して違反してはならない。もし、規約を破り、隊に害をもたらすようなことがあれば、隊長に死活の権限を与える。

※隊士近藤長次郎は亀山社中時代、グラバーから薩摩藩名義でユニオン号を買い長州藩に届けた報酬を私物化し、イギリスへ密航を企てたが、出発間際発覚した。同志に小曽根家の裏部屋へ連行されたうえ、社中の隊規違反を責められ、慶応二年一月切腹した。その場にいなかった龍馬は、この事件を教訓として、隊長に違反者に対する罰則のすべての権限を持たせたものか。


3.隊士の心得
隊士は互いに助け合い、困難を乗り越え、正義を重んじ、道理を正さなくてはならない。独断過激に同志の妨げをしたり、徒党を組んで他人の妨げになるような行為はもっとも慎むべきである。


4.隊士の修業課目
隊の修行内容は政法、火技、航海、汽機、語学などその志に応じて学習すること。互いに励まし勉強し、怠けてはならない。

*隊士は各々業務分担ができていた。業務は文官・武官・器械官・測量官・運用官(営業)・簿籌官(会計)・医官などに分かれ、文官には長岡謙吉、測量官に沢村惣之丞・陸奥陽之助、医官に長岡謙吉・山本洪堂・石田英吉がいた。専門分野やその志望するところに応じて二役以上受け持つ者もいただろう。


5.隊の会計.
隊の経費は隊の収入でまかなう。また利益は分配し、私腹してはならない。もし費用の不足、あるいは学科に欠乏をきたすときは、隊長が長崎駐在の土佐藩役人に申し立て、援助してもらう。

大政奉還

徳川慶喜
徳川慶喜
山内容堂
山内容堂

慶応三年(1867)6月9日に土佐藩参政、後藤象二郎とともに藩船「夕顔」に搭乗し長崎を出航した龍馬は八ヶ条の時勢救済案をまとめ、後藤に提示した。

この「船中八策」は幕府と討幕派との武力衝突を避けうる可能性を提示していた。また、この文書は「大政奉還に関する建白書」の基案となり、明治新政府の「五箇条の御誓文」にもつながる注目すべき文書だった。

船中八策

一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令 よろしく朝廷より出づべき事

幕府将軍・徳川慶喜が、国の統治権(大政)を天皇(朝廷)に返上すること

一、上下議政局を設け、議員を置きて、万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事

一、有材の宜しく公卿くぎょう・諸候及天下の人材を顧間に備へ、官爵かんしゃくたまひ宜しく従来有名無実の官を除くべき事

一、外国の交際広く公議にり、あらたに至当の規約を立つべき事

一、古来の律令を折衷りつりょうをせっちゅう し、新に無窮の大典を撰定すべき事

一、海軍宜しく拡張すべき事

一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事

一、金銀物価宜しく外国と平均の法を設くべき事

幕府が政権を朝廷に返すことによって、徳川家を一大名として保護し、新政府内での発言力を温存させ、薩長の武力討幕(=徳川家の滅亡)の理由を失わせる一石二鳥の妙案だった。

*江戸時代後期には江戸幕府の全国統治は天皇から将軍への委任関係に由来するという大政委任論と呼ばれる学説が唱えられていた

土佐藩主・山内容堂は熱烈な勤王家ではあるが、関ヶ原以来大恩ある徳川家にも忠誠を誓っている。公議政体論(徳川家を含めた諸侯・公卿・諸藩士の参加によって国政を議すべきとした)を主張していた容堂は将軍徳川慶喜よしのぶ擁護の立場から後藤象二郎の意見を入れ10月3日、慶喜に大政奉還の建白書を提出した。

建白書提出から10日後、将軍慶喜は在京諸藩の重臣を二条城に招集した。龍馬は登城する後藤に次のような激励文を送った。

(もし建白が受け入れられなければあなたは切腹されるであろう。自分もその場合は将軍を襲撃した後死ぬつもりなので、あの世でお会いしましょう。) 

大政奉還の図待つ龍馬のもとに後藤からの返書が届いた。

龍馬は「将軍今日の御心、さこそと察し奉る、よくも断じ給えるものかな、よくも断じ給えるものかな、予は誓ってこの公のために一命を捨てん」と声をあげたという。

14日、大政奉還の上奏文は朝廷へ提出され15日、大政奉還は勅許ちょっきょ(天皇のお許し)された。
龍馬の唱えた大政奉還策は見事実現を見た。

前述の陸奥宗光の絶筆「後藤伯」に「大政奉還工作」について語った一節を紹介する。

大政奉還の上奏文が朝廷へ提出された14日、薩長は徳川討伐の密勅を受けていたが、朝廷はこの密勅を取り消さざるを得なかった。また、この密勅は天皇の承認を得ない、薩長寄りの朝廷幹部(黒幕は岩倉具視?)が書いた偽物だったらしい。

この時点で戦争が起これば天下を二分する長期戦は必至で、後に起こる戊辰戦争の比では無かったろう。


王政復古

慶応3年12月9日、御所内学問所において明治天皇臨席の元、王政復古の大号令が下された。

内容は、摂関制度(摂政・関白)、幕府を廃し、総裁、議定、参与の三職をおく、というもので、天皇による新政府の成立を宣言するものであると同時に、徳川幕府の廃絶を意味した。

幕府=徳川慶喜は大政を奉還しても朝廷には政治担当能力は無いから、実質的に政権運営を担い実権を握れるとの思惑があったらしい。薩長としては自分達が政治的実権を握るため、何としても徳川家を排除したかった。

これに先立つ、諸侯を集めた小御所会議において山内容堂ら公議政体派は、前将軍の徳川慶喜が出席を許されていないことを非難し、慶喜を議長とする諸侯会議の政治体制を主張した。

これに対し岩倉具視ら薩長派は徳川政権の失政を並べ、徳川家の辞官納地による誠意を見せることが先決であるとして両者譲らず、会議は紛糾した。結局、朝敵となることを恐れた山内容堂ら公議政体派が岩倉具視らに押し切られ、徳川家の政権担当の夢は断たれた。

王政復古の大号令により、徳川幕府の廃絶とともに鎌倉幕府以来の武家政治が終焉した。

大政奉還王政復古の大号令の間の11月15日、龍馬は暗殺されている。微妙な時期だけに意見の合わなくなった薩長の暗殺黒幕説がくすぶり続ける。