嘉永六年(1853)三月、19歳の時剣術修行のため江戸へ。京橋
父・八平は旅立つ龍馬に「修行中心得大意」と題する戒めの三ヶ条を書いて与え、龍馬はこれを紙に包んで「守」の一字を書き、後々まで肌身離さず持っていたという。
修行中心得大意
一、片時も不忘忠孝、修行第一之事
一、諸道具に心移り、銀銭不費事
一、色情にうつり、国家之大事をわすれ、心得違有間じき事
右三ヶ条胸中ニ染め修行をつみ、目出度帰国専一に候
以上
丑ノ三月吉日 老父
龍馬殿
一、片時も忠孝の心を忘れず、修行を第一とすること
一、諸道具に心を奪われ、無駄遣いしないこと
一、女性に心を移して、国家の大事を忘れ、心得違いがあってはならないこと
三ヶ条を胸に刻んで修行を積み、めでたく帰国を心掛けるようにと、父八平が訓戒の言葉を書くくらいだから、龍馬は父にとってはまだ頼りない存在だったということだろう。
同門には遊説家として有名な清河八郎、桜田門外の変で井伊直弼を討ち取った有村次左衛門などがいる。また道場主の娘・佐那とはいつからか相思相愛の仲だったらしい。
しかしこの頃から時代は大きく動き始めた。この年の六月、米国東インド艦隊司令長官ペリー率いる黒船四隻が浦賀に来航し開国を迫った。龍馬も藩の命令で品川の海岸守備に任じている。
父親に宛てた手紙には、
とある。ありふれた
安政三年(1856)八月、22歳の時再び剣術修行を名目に江戸へ出立。合計三年余の江戸での生活で他藩の若者と交流したことは後の龍馬にとって大変な財産になったことだろう。
○関連ページ=幕末剣術道場
嘉永五年(1852)、出漁中に遭難した土佐の漁民が11年余に及ぶ滞米を終え帰国。
藩では、河田小龍を起用し、取り調べにあたらせたが日本語を忘れているため遅々として進まない。小龍は、漂民の中で教養があると見込んだジョン万次郎を自宅に連れかえり、起居を共にしつつ万次郎に読み書きを教えながら聞き取り調査を進め、同時に万次郎からは英語を学んだ。
万次郎が語るこの11年余の滞米生活に挿し絵を加えて小龍が書き綴ったものを
それから二年後の安政元年(1854)、最初の江戸での剣術修行を終えた龍馬は小龍を訪ねる。当時、小龍は世間から”新智識”と呼ばれる土佐随一の学識者だった。
小龍は欧米諸国の情勢や科学文明の驚くべき発達から日本との圧倒的な国力の差を指摘する。まず大船を手に入れ、海運を興し貿易を通して西洋の科学技術を吸収し、国内的には富国強兵に努める事が肝要であり、現在の貧弱な力をもって攘夷!攘夷!と騒いでいるばかりでは問題にならない、と諭した。龍馬は手を打って喜び小龍の意見に賛同した。小龍は龍馬の訪問をうけたときの模様を「藤陰略話」という手記の中に記している。要約すると、
と話すと龍馬がいうには
といって別れたが、また来ていうには
と問うので
というとすっかり同意し
といって別れた』
とある。が、この話の後半、少々できすぎの感は否めない。「藤陰略話」は明治27年に著述されたものらしいが、小龍の願望が少なからず入り込んでいるように思える。この会談の後、龍馬が金策に努力したという形跡は無い。あるいは坂本家および才谷屋からの資金援助をあてにしていたのかもしれないが、翌年(安政二)十二月、父・八平を亡くし、安政三年八月には再び剣術修行を名目に江戸へ旅立っている。
ともあれ小龍の話が龍馬にとって新鮮な驚きとともに羅針盤の役割を果たしたことは歴史が証明している。
これは後の亀山社中−海援隊へ繋がっていく。また長岡謙吉・近藤長次郎ら社中・海援隊士の多くが小龍門下である。
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| 左 武市半平太画像 右 久坂玄瑞画像 玄瑞肖像画は本人を描いたものではなく、玄瑞によく似ていたという一人息子の秀次郎をモデルに明治時代に描かれたもの |
文久元年(1861)八月、武市半平太(瑞山)は「藩をあげて尊王藩とし国主を押したてて京へ上り尊王の実を天下に示す」という 「一藩勤王」を掲げ江戸で土佐勤王党を結成。武市が土佐に帰国すると龍馬もこれに加盟した。血判者は192名、総数300余名。郷士や庄屋クラスの豪農が大半を占めていた。
剣術詮議名目で丸亀など諸国遍歴の旅に出た龍馬は文久二年(1862)一月、武市の長州藩士・
久坂は吉田松陰門下で松下村塾三高弟の一人で、防長第一の俊英と謳われた人物。龍馬は久坂と面談を重ね、武市宛返書を持ち帰る。返書の中で久坂は
武市の土佐勤王党は尊王攘夷派集団で文久二年四月八日、当時土佐藩政を主導していた親幕派の吉田東洋(後藤象二郎の伯父)を暗殺。一挙に「一藩勤王」を実現させようとした。
| 龍馬の足どり | ||
| 文久元年 (1861) |
8月 | 土佐勤王党結成される 龍馬も入党 |
| 10・11 | 剣術詮議名目で丸亀などへ | |
| 文久二年 (1862) |
1・14 | 萩に久坂玄随を訪問し面談を重ねる |
| 2・29 | 土佐に帰国 | |
| 3・6 | 吉村虎太郎、沢村惣之丞脱藩 | |
| 3・23 | 密かに帰国した沢村惣之丞に武市半平太宅で面談 | |
| 3・24 | 沢村惣之丞と脱藩 | |
| 4・1 | 下関の白石正一郎方に現れる。 九州へ(薩摩入国を図ったが断念?) |
|
| 6・11 | 下関で別れた沢村惣之丞と大坂で再会。京都を経て江戸へ | |
| 8・22 | 江戸の千葉定吉道場へ寄宿 | |
| 10月 | 千葉重太郎と勝海舟に面会し門人となる | |
文久二年三月六日、吉村虎太郎
吉村虎太郎は武市よりも長州藩・
沢村惣之丞は虎太郎の勧めで密かに帰国し、諸国の最新情勢を武市に報告し脱藩を促したが武市はこれを拒否した。
龍馬は三月二十四日夜、その沢村惣之丞とともに脱藩している。龍馬もまた武市の考えとは相容れぬものがあった。かといって虎太郎や長州尊攘派の強硬論にも組できない。ただ、二度の江戸への遊学経験・河田小龍の話・尊攘派の討幕計画などを通して時代の動きを敏感に感じていた龍馬は土佐の田舎にじっとしていられなかったのではないだろうか。
四月二三日、吉村虎太郎は「伏見挙兵計画」に乗って伏見の寺田屋に薩摩尊攘激派を中心とする各地尊攘派と集合(寺田屋事件)しているところを捕えられ、土佐に送還された(後に再脱藩し天誅組に参加し討死した)
龍馬脱藩の翌日、兄権平は「弟龍馬儀昨夜以来行方知れず」と家老福岡に届け出、二十七日には「所蔵の刀紛失の旨」報告している。
この時、姉・栄が家宝の刀を渡し自刃したという話があるが事実ではない。この一件で坂本家が何らかの責任を取らされたということも無かったようだ。
脱藩経路は
武市は龍馬の脱藩に反対せず一編の詩をはなむけに贈った。
肝胆元より雄大にして
希機自ら湧き出す
飛潜誰か
自らが厳しい求道者だった武市とは対照的な自然児である龍馬を、六歳年長の武市は兄のように温かく見守っていたように思われる。
文久二年十月頃、福井藩前藩主・松平
当時海舟は一流の開明思想家であり、幕府軍艦奉行並の職にあった。
海舟の『追賛一話』には、こう書かれている。
今宵のこと、ひそかに期する所あり。もし公の説いかんによりては、あえて公を刺さんと決したり。今や公の説を聞き、大いに余の
と。
海舟はまた
「彼はオレを斬りにきた奴だったが、なかなかの人物さ。その時おれは笑って受けたが、落ちついていて、なんとなく冒しがたい威厳のある、いい男だったよ」
とも語っている。
「彼はオレを斬りにきた奴だったが」は海舟一流の誇張だろう。福井藩,から紹介状をもらい訪問したわけだから意見が合わないからといって斬るはずは無いのではないか。また龍馬と海舟の出会いに関しては、その時期、場所、いきさつなど異説もある。
海舟の主張である「一大共有の海局」とは、幕府のためだけの、幕府以外の雄藩を敵視する海軍力ではなく、日本国全体のための国防力としての海軍の建設にあり、ひいては神戸と対馬に海軍基地を置くと同時に、やがては釜山、天津にも基地を作らせ、日・韓・清の
龍馬が世界、国内情勢の予備知識を少なからず持っていたとしても、海舟のアメリカ帰りの実地の体験と、その視野の広さと思考力の深さからくる海軍建設と貿易振興の理論には迫真的な説得力があって感動させられたに違いない。
これより海舟を師と仰ぎ、海舟の片腕となって神戸海軍操練所創設に力を注いで行く。また土佐藩脱藩浪士など多数を海舟門下生に引き入れている。
姉乙女への手紙にこの頃のことをこう記している。
「さてもさても人間の一世は合点の行かぬは元よりの事、運の悪い者は、風呂より出でんとしてきんたまを詰め割りて死ぬる者あり。それと比べて私などは、運が強く、何ほど死ぬる場へ出ても死なれず、自分で死のうと思うても又生きねばならん事になり、今にては日本第一の人物勝麟太郎という人にでしになり、日々かねて思い付く所を精といたしおり申し候・・・・」
●関連ページ=龍馬の手紙
海舟を訪ねた前後、当時幕府の政事総裁職だった松平
文久三年、神戸海軍操練所開設へ向けて「神戸海軍塾」(勝海舟の私塾=勝塾)が活動を始めた。出身・肩書を問わず、広く集めて海軍技術を習得させることを緊急課題としていた。龍馬は土佐の仲間たちをぞくぞくと勝塾に引き入れた。
この年の一月十五日、海舟は下田港で土佐藩主山内容堂に会い龍馬の脱藩の許しを乞い、併せて土佐藩士らを海軍塾に預かることの承認を受けている。
また海舟は幕府要人や藩主たちに海軍の必要性を説くため、船に乗せ実地体験させる方法をとった。
四月二三日、順動丸甲板上で将軍家茂に「神戸海軍操練所」開設を願い出ると即座に許可が下りた。その費用として幕府から年三千両が出されることになったが、不足の金五千両を越前の松平春嶽から借り入れ、元治元年(1864)五月「神戸海軍操練所」は正式にスタートをきった。
海舟と龍馬は理想に向けて一歩前進したかに見えたが、元治元年(1864)六月、京都でおきた池田屋騒動に塾生が関わっていたことや密貿易の嫌疑をかけられ慶応元年(1865)三月、一年足らずで神戸海軍操練所は閉鎖に追い込まれてしまう。海舟は海軍奉行の職を解かれ蟄居させられた。幕府の保守派にとって勝海舟と神戸海軍操練所は危険な存在だったのである。これより先、江戸城無血開城まで海舟は歴史の表舞台から消える。
この年、龍馬は藩の
行き場を失った龍馬らは勝海舟のはからいで薩摩藩の
薩摩藩や長崎の豪商小曾根家援助のもとに交易の仲介や物資の運搬などで利益を得るのを目的としながら航海術の習得に努め、その一方で国事に奔走した。
経済こそ政治を動かす基盤だと考えていた龍馬は、国事と経済活動を結びつける組織として作ったのが”亀山社中”である。日本で最初の商社といわれている。
商売は武士の最も軽蔑するなりわいであり、開明派の佐久間
龍馬は、商売もまた堂々たる国事だとみなした。こうした考え方は龍馬の
社中はこうした龍馬の信念を実践に移し、活発な商業活動を展開した。長州は幕府による再征を前に武器が欲しかったが朝敵の汚名をきせられて外国の貿易商と取引ができなかった。そこで薩摩藩名義で購入した最新武器や軍船(ユニオン号)を長州藩に納入した。
長州の薩摩藩に対する憎悪は言葉にできないほどで、長州勢を京都から追い落とした8・18の軍事クーデター、それに続く禁門の変など何度も煮え湯を飲まされてきた。が、それに関わらず薩摩の京都出兵兵士の為に米を供給したりした。
亀山社中はこうした取引を通じて薩長の活発な交流をはかり潤滑油として両国の感情を融和させ、薩長同盟に寄与したことは疑いない。