■嘉永六年(1853)
6月3日 黒船来航
すべてはここから始まった。アメリカ合衆国の黒船四隻が浦賀(現横須賀)に現れ、マシュー・ペリー提督はフィルモア大統領の親書 を幕府に渡し開国・通商を求めた。ペリーは来春の再来を約して帰った。幕末動乱の幕開けである。
幕府は黒船来航の情報を前年入手していたが具体的な対策を立てられなかった。
当時のアメリカは油をとる為の遠洋捕鯨の全盛期で、その補給基地を必要とした。まだ国内に油田の発見される前で鯨油産業は花形だった。ちなみに当時のアメリカ捕鯨は、鯨を仕留めると海中で脂肪だけを切り取り母船に回収し、残りはそのまま廃棄した。
■嘉永七年(1854)
3月3日 日米和親条約締結
アメリカの恫喝に屈服した形で日米和親条約を結び下田、函館の港を開いた。こうして徳川幕府の250年余に及ぶ鎖国政策は終焉をむかえた。
条約内容は
・物資補給のために下田・函館の開港
・漂流民の救助、引き渡し
・アメリカ人居留地を下田に設定
・片務的最恵国待遇など
![]() 井伊 直弼(いい なおすけ) 文化12年(1815)- 安政7年(1860) 彦根藩主・幕府大老 肖像画(豪徳寺蔵) |
■安政五年(1858)
4月23日 井伊直弼が大老に就任
6月19日 日米修好通商条約締結
8月 8日 戊午の密勅
9月 安政の大獄始まる
10月25日 家茂が十四代将軍に就任
井伊直弼(彦根藩主)が大老に就任すると六月、勅許(天皇のお許し)を得ずに日米修好通商条約を結び、将軍後嗣問題では御三卿の一橋慶喜を推す水戸藩徳川斉昭らと対立したが、紀州徳川慶福(家茂)を指名することで決着をつけた。
十月には家茂が14代将軍に就任 している。この年、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも修好通商条約を結び、幕府は開国路線を進めざるを得なかった。条約では、神奈川・長崎・函館・新潟・兵庫の開港、江戸・大坂の開市などが決められた。輸入関税率の協定制度や、領事裁判権、一方的で無条件の最恵国待遇など、不平等な条項が盛り込まれた条約だった。
幕府の通商条約締結に不満を示した朝廷はその内容を詰問する勅諚を水戸藩に下した。(戊午の密勅)
戊午の密勅に端を発し、翌年にかけて井伊直弼ら幕閣は幕府施策への反対派である一橋派や尊攘派を大弾圧した。(安政の大獄)
■安政七年(1860)
3月3日 桜田門外の変
水戸藩・薩摩藩激派脱藩浪士によって井伊が暗殺される桜田門外の変が起こる。テロが大きな政治的影響力を発揮することは歴史上なかったといわれるが、このテロだけは例外だった。
幕府は公武合体派が実権を握り、諸国では尊皇攘夷派の活動が活発になり激化していった。この頃から本来の”尊皇攘夷”は”倒幕”と結びついていく事になる。
尊皇攘夷運動の支柱である水戸学には朝廷権威により幕府専制を抑える思想があり、井伊暗殺で幕府の弾圧がゆるむと全国的に改めて尊皇攘夷の声が高まり、主に諸藩の下級武士を中心とする尊攘派の活動が激化した。
桜田門外変図(上図 )
60余名の井伊家行列に18人の浪士が斬り込んだ襲撃は15分程だったといわれる。
後には指、耳、鼻が大量に落ちていたという。
■文久二年(1862)
2月11日 皇女和宮降嫁
和宮親子内親王は孝明天皇の異母妹で、江戸時代以前、皇女が武家に降嫁し関東下向した唯一の例である。
家茂死後、静観院宮と号し明治維新の際、将軍徳川慶喜の助命を嘆願し、江戸城無血開城の立役者の一人でもある。
4月23日 寺田屋事件
7月 徳川慶喜・将軍後見職
松平慶永・政治総裁職に就任
閏8月 松平容保・初代京都守護職に就任
幕府は将軍家茂に皇女和宮を降嫁させ、徳川慶喜を将軍後見職、松平慶永を政治総裁職、松平容保を京都守護職に就任させて公武合体策を推し進めた。
朝廷は和宮を降嫁させることを条件に攘夷を強く迫った。
■文久三年(1863)
8月18日 8・18の政変
長州尊攘派は朝廷内に勢力を築き、偽勅許を連発するなどして幕府に攘夷を迫ったが、8月18日、薩摩藩と会津藩は手を結び朝廷及び京都から長州勢力を一掃するクーデターに成功した。これにより薩摩藩は朝廷に大きな影響力を持つようになる。
■元治元年(1864)
6月 5日 池田屋事件
新選組の働きにより尊攘激派による京都焼討ちを免れる。
7月19日 禁門の変
池田屋事件に憤った長州藩は京都での勢力挽回をめざし挙兵するが、薩摩軍を擁する幕府連合軍に敗れ、これにより長州尊攘激派は壊滅する。
8月 2日 第一次征長令
![]() 蛤御門 |
![]() 久坂玄瑞(肖像画) |
![]() 新選組局長・近藤勇 |
■慶応二年(1866)
1月21日 薩長盟約
12月 5日 徳川慶喜十五代将軍に就任
12月25日 孝明天皇崩御
土佐藩脱藩浪士・坂本龍馬らの斡旋で犬猿の仲だった長州藩と薩摩藩の二大勢力が手を結ぶ軍事・政治的密約を交わす。
前年の慶応元年十一月、幕府は諸藩に二度目の長州出兵を命じたが薩摩藩らは従わず失敗に終わった。
孝明天皇は京都守護職・松平容保を最も信頼していたといわれ親幕派だった。また鎖国攘夷家だったが、これは外国の知識が無かった為に西洋人に対する極度の怖れからといわれている。孝明天皇が崩御されたことで、薩摩藩は朝廷を掌握し、討幕派は勢いづいた。すでに薩長は初期の純正攘夷主義をひそかに棄てて、それを擬装しつつ攘夷を討幕の道具にしようとした。
■慶応三年(1867)
10月15日 大政奉還勅許
11月15日 坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺
12月 9日 王政復古令
坂本龍馬が土佐藩参政・後藤象二郎を動かし、前土佐藩主・山内容堂から大政奉還建白書が提出され、将軍徳川慶喜は大政を朝廷に奉還した。これは倒幕の意義を無くし、かつ将軍家の新政府内での勢力を温存する一石二鳥の妙策だった。が、12月、王政復古令が出されるに至って事実上、薩長の新政権が成立した。
徳川慶喜はひたすら朝廷(薩長勢力)に恭順し、会津藩らの和平交渉に薩長は応じず、戊辰戦争を経て維新は成った。
![]() 徳川慶喜 |
![]() 岩倉具視 |
![]() 山内容堂(豊信) |
参考書籍
歴史群像-坂本龍馬 ウィキペディア、フリー百科事典
幕末の思想 幕末大全 逆説の日本史
国際派日本人養成講座、他