野根山二十三烈士

■幕末の志士たちの中には、活躍の場が与えられぬまま無念の死を遂げた者も少なくなかった。
安芸郡の土佐勤王党の志士たちの場合は・・・・・・



 野根山二十三烈士の墓

奈半利川
野根山二十三士
・清岡治之助 41歳   ・川島総次 41歳
・清岡道之助 32歳   ・柏原省三 31歳
・宮田頼吉 31歳     ・岡松恵之助 30歳
・柏原禎吉 30歳     ・須賀恒次 30歳
・宮田節斎 29歳     ・豊永斧馬 27歳
・新井竹次郎 26歳   ・近藤次郎 25歳
・寺田権平 24歳     ・横山英吉 24歳
・田中収吉 22歳     ・小川官次 21歳
・木下嘉久次 21歳   ・吉本培助 21歳
・千屋熊太郎 21歳   ・宮地孫一 19歳
・安岡鉄馬 18歳     ・木下慎之介 16歳
・檜垣繁太郎 16歳

■文久3年8月18日の政変により尊攘派の過激分子取り締まり令が出て9月21日土佐藩は、これを口実に土佐勤王党の弾圧を実行する。党首武市半平太以下多数が捕縛され、幾人かは身の危険を感じ脱藩している。

武市は獄中から、「建白書を提出して藩の反応を見る。」という指令を発している。この意見は、各地域の同士に伝えられ小高坂村(現高知市)の門田為之助の家に、その代表者が集まり密会が行われた。

激論が続き、安芸郡の清岡道之助は「土佐七郡の同士が一団となり決死覚悟で藩庁にせまり、武市以下党員の放免がかなわぬ時は、獄舎を破壊し、そのまま武市らと長州へ走る」ということを主張した。しかし、この意見は過激すぎるとのことで反対され、この日の結論はとりあえず、「土佐七郡の内、香美郡・長岡郡・土佐郡・吾川郡・高岡郡の5郡の同士で建白書を提出すること、残る安芸郡(東部)・幡多郡(西部)の者たちによる後援、支援」などを決め解散している。

この決定に従い、元治元年6月13日、大石弥太郎ら29名は建白書を藩庁に提出したが完全に無視されている。これに痺れをきらした清岡道之助ら安芸郡の同士は単独で行動を起こす事になる。

7月25日、安芸郡の二十三士は武装して、田野村(現田野町)を出発し野根山、岩佐の関所に屯集して、藩庁に半平太の釈放と藩論の統一を求める嘆願書を提出する。聞き入れられないときは、藩兵と一戦交えることも視野に入れ場合によっては脱藩し、禁門の変への参戦か(この時すでに禁門の変は終息していた)長州へ向かうつもりだったようだ。

藩庁はこれを反乱とみなし、大目付小笠原唯八率いる討伐隊を送り一度ならず「山を降りるよう」、説得交渉を行っている。が、道之助らには聞き入れられず捕縛に向かった。これを知った二十三士はいち早く阿波藩領へと逃げ込むが、阿波藩兵に捕えられてしまう。阿波藩での取調べは約1ヶ月にもおよび阿波藩側もなんとか穏便に処理しようと、この事件の後始末には頭を抱えたようだが結局は土佐藩へ引き渡された。

土佐藩側は、彼らを受け取ると、すぐに縛り上げている。道之助らは岡地の獄舎で一夜を明かした後一度も取り調べを受ける事無く、9月5日草駕籠に乗せられた。駕籠は城下には向かわず、すぐ近くの奈半利川へ運ばれ、後ろ手に縛られたまま斬首刑に処されてしまう。

最年少、16歳の木下慎之助は「兄様、お先に」と頭を下げ、うろたえることなく処刑の先頭に立った。

最後の処刑は、首領清岡道之助だった。辞世の句が終わらないうちに首は落とされた。

墓は田野村の福田寺境内片隅に土を盛られただけの粗末なものが作られた。道之助の妻は胴と首を柄杓でつなぎ亡き夫を弔ったという。

二十三士は禄を没収され、遺族たちは生活苦が続いていた。
明治10年、二十三人に族禄が復旧され、明治24年には贈位の恩恵が与えられた。
現在見ることのできる二十三士の墓碑の全ては清岡道之助の妻がのちに私財を投じて建てたものである。


■参考文献 「龍馬とその仲間たち」前田秀徳著(リーブル出版)他

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