維新の門「維新の門」の群像は維新に活躍した梼原周辺地域ゆかりの八人の土佐藩志士を顕彰したもの
維新の門「碑文」より
幕末の風雲急を告げる文久2年(1862)春、坂本龍馬は、勤王郷梼原から那須俊平・信吾父子の案内で盟友澤村惣之丞とともに、回天の偉業を夢見て脱藩した。この地からも吉村虎太郎、前田繁馬、中平龍之助が国境を越え維新の動乱の渦中に身を投じた。
また、これらの志士を身を賭して支える掛橋和泉があった。それから年を経ること6年、明治維新は成り、近代国家が誕生するが、そのとき既に八人の志士は壮絶な死を遂げていた。
いま山中に残る脱藩の道を行くとき、新しい時代の到来を信じ、大きな夢を抱いて峻険を掛け抜けた男たちの決意が偲ばれる。
ここに志士の足跡が残る地を選び、八志士の群像を建て「維新の門」と名づけ、その功績と英姿を永遠に伝える。近代日本の黎明は、この梼原の地より輝いた。
その郷土を誇りとする青年たちの情熱と維新の里の発展を希求する町内外の多くの有志の熱い想いが、この群像を建立した。
龍馬は、澤村惣之丞とともに、文久2年(1862)3月24日、高知を出奔し25日に梼原に到着、その夜、梼原の勤王の志士那須俊平・信吾父子の道案内により予土県境・韮が峠を越えて伊予の国(愛媛)に脱藩した。
信吾は韮ヶ峠より引き返したが俊平は同行し27日、宿間村(五十崎町)に着いた。
俊平はここから引き返し、龍馬、惣之丞は船便にて長浜町へ28日船で三田尻(山口県)へ到着した。(異説有)
吉村虎太郎をはじめ、ここから脱藩した12名の志士の中で生きて維新の夜明けを迎えた者は1人としていない。
←太郎川公園 「維新の道、石碑」

坂本龍馬脱藩の道として整備されている
太郎川公園 「草葺の家と石水の池」
石碑には司馬遼太郎氏の名が刻まれている
千枚田 梼原町神在居
梼原の標高は220〜1,455mとかなりの高低差があり、平地が少ないことから山間の傾斜を利用した農業が発達した。
その中でも、神在居に位置する棚田は、急勾配の少ない土地を切り開き、谷川から水を引くという工夫を施され、数多くの田んぼを有することから千枚田と呼ばれている。
■津野町天保八年(1837)〜文久三年(1863)
天保八年、芳生野村(現在の津野町芳生野)の庄屋に生まれ、各地庄屋を歴任し、治績をあげる。
文久一年、武市瑞山の土佐勤王党に参加するも文久二年三月、龍馬より一足早く脱藩。土佐藩脱藩の先鞭をつけた。上京し国事に奔走するが捕えられて送還される。
翌年再度脱藩、上京して藤本鉄石らと天誅組を結成し大和五条に兵を挙げ倒幕の口火をきったが敗走。大和国吉野で戦死した。
辞世の句
吉野山 風にみだるるもみぢ葉は
わが打つ太刀の 血煙と見よ
吉村虎太郎・武市瑞山・坂本龍馬・中岡慎太郎を「土佐幕末四天王」という。
戦死の地、奈良県東吉野村に墓がある。京都霊山の坂本龍馬・中岡慎太郎墓地のすぐ近くには鎮魂碑がある。
地芳峠を中心に、東は天狗高原、西は大野ヶ原に至るカルスト地形で、標高は1,000mから1,455mでカーレン群、ドリーネが多く、カルスト地形として最も標高が高く、山口県の秋芳台、福岡県の平尾台と並ぶ日本三大カルストの一つ。
天狗高原はあちこちに遊歩道が整備されており、ハイキングにもってこい。
春は新緑、夏はハンカイ草などの草花と避暑、秋は紅葉、冬はスキーとオールシーズン楽しめるそうです。
宿泊、食事、休憩には国民宿舎【天狗荘】が利用できます。
津野町は天狗高原とともに四万十川源流点としても有名。

オマケ
世界地図模様の牛
見つけたら教えて(^_^)