岡田以蔵の墓

以蔵の墓

高知市薊野 真宗寺山
墓碑銘には岡田宜振とある。遠くからお参りにこられる方が時々いるそうです。

 高知市薊野


諱(いみな=本名)は岡田宜振(よしふり)。以蔵は通称。岡田家は下士の中でも最下級の足軽。武士として扱ってもらえないような低い身分で道場にも満足に通えず、我流で稽古した。大柄で剣の腕は天才的だったらしい。

17歳の頃、武市道場に入門を許され、武市が土佐勤王党を結成すると以蔵もこれに加盟した。( しかし、彼の名は後に名簿から削られている)そして武市とともに上京し武市の指示のもと天誅と称し、京で暗殺をかさね「人斬り以蔵」と恐れられた。

一時は坂本龍馬の斡旋で、勝海舟の護衛も務めた。
文久三年(1863)三月、海舟は以蔵と京の夜道を歩いていると、三人の刺客が現れて斬りつけてきた。以蔵は前に進み出て早打ちに一人斬り倒すと、後の二人は逃げていった。勝は以蔵の早業に感心したという。しかし、後に勝が以蔵に対して「人殺しをたしなんではいけない」と忠告すると、以蔵は「あの時、私がいなかったら先生の首はなかったでしょう」と切り返し、返す言葉がなかったという。

また勝は、武市の以蔵に対する扱いや、勤王党のテロ路線の行く末を予見し、武市と袂を分かつように諭したが、頑迷な以蔵は聞く耳を持たなかったという。

文久三年八月十八日の政変で土佐勤王党が京で力を失ったのち、以蔵はしだいに酒色に溺れて身を持ち崩していった。「土井鉄蔵」と名乗って博奕打ちになり、強盗を働いたりした。

元治元年(1864)、無宿人狩りの網にかかり幕吏によって捕えられた以蔵は京からの追放処分を受けた。これを知った土佐藩に、放たれると同時に捕えられ送還された。

その頃の土佐では、土佐勤王党への弾圧の嵐が吹き荒れ、武市以下多くの土佐勤王党士が投獄され厳しい取調べ、拷問を受けていた。”無宿人以蔵”には特に過酷な拷問が待っていた。

このとき武市の命令で「毒薬を飲ませようと届けたが以蔵が飲まなかった」「飲んだが効果がなかった」「自殺させることを以蔵の家族に反対された」と諸説あるが、よくわかっていない。(毒殺未遂に関して、それを裏付ける証拠は見つかっていないようだ)

拷問に耐えられなかったのか、仲間の毒殺計画に失望したのか、以蔵の自白はすすみ、土佐勤王党への決定的な打撃となった。

処刑場で藩吏が「岡田以蔵、天誅で斬るぞ!」と言った。以蔵は「そうか、天誅か、天誅なら斬れ、斬れ!」と言ったとか。首は土佐の雁切河原に三日間晒されたという。 享年28歳。

が遺詠の句とされている。

(岡田以蔵の捕縛、自白の経緯には、諸説あるようです。)