新吉原大門 (明治中期)
吉原の妓楼が西洋風に建て替えられていったのは 明治9年(1876)以降である。
まもなく洋装の娼妓も登場し、人気を博した。
鋳鉄製の堅牢な門は明治14年(1881)4月に建てられたもの。門の上にはガス灯らしきものが見える。
■遊女屋の主人、庄司甚右衛門は遊女屋を一カ所に集める方が、治安維持の取締りが容易であることなどを理由に遊廓開設を幕府に陳情し、1617年(元和3)日本橋葺屋町に隣接する葭原(現日本橋人形町2・3丁目辺)に吉原遊廓が許可された。
その後1657年(明暦3)の替地令や大火によって浅草浅草寺裏に移転した。
移転以前を元吉原、以後を新吉原と呼ぶ。
遊廓は一般の町屋と区別されるため、周囲に堀をめぐらし出入口を大門一カ所と定めた。火事になると悲惨で安政2年(1855)の大火では遊女536名が囲いの為に避難できずに焼死している。
見世に並ぶ娼妓たち
(明治中期)
華やかな格子見世の風情。
当時の新聞によれば遊女の数は1979人。幕末の慶応年間には3000人を越す遊女がいた。