万延元年(1860)幕府は修好通商条約批准書交換のため、正使・新見豊前守正興、副使・村垣淡路守範正、目付・小栗豊後守忠順の3人を使節として正式にアメリカに派遣した。日本初の公式ミッションであったけれど、それほど重要な使命をおびていたものでもなかったようだ。
この使節はアメリカ政府が提供した軍艦ポーハタン(日本来航時のペリー提督の旗艦)で咸臨丸を随伴させて出航。帰路はアメリカの軍艦ナイアガラでニューヨークを出港、大西洋を横断し、アフリカ喜望峰経由で帰国した。
使節団はアメリカの国賓として至るところで大規模なレセプション、パレードなどで大歓迎を受けた。新聞の報道振りも一般的には好意的なものだったが、 「日本の文化に比べて西洋文化が全てに おいて優っている事実を知り、日本人が非常に驚いている」ことを強調する高慢な人種的優越感を漂わす記事も見られたようだ。
土下座する従者たち
ホワイトハウスを訪れた際、従者たちが高官に土下座してアメリカ人を驚かせた。
■当時の新聞には「日本人は常に物静かで威厳があり、驚きや賞賛といったものを言葉にも表情にも出さない」と報じられた。一行は武士の立ち居振舞いをそのまま演じたのだろうが、それはきわめて洗練されたものとして、米国人には受けとめられた。
逆に、一行が街をパレード中に市民が馬車の中をのぞき込んだり、服に触ったりと、その行儀の悪さに驚き「まるで江戸の祭日のようだ」と村垣副使は感想を述べている。
徳川幕府がオランダに発注して、1857年(安政4)長崎で引き渡しを受けた木造・三檣(さんしょう=三本マスト)バーク型のコルベット艦(汎用戦闘艦)
幕府は使節団派遣の機に創立間もない幕府海軍に実地運用の機会を与えるため、長崎海軍伝習所の練習船となっていた咸臨丸を随伴させることにした。
咸臨丸提督には軍艦奉行「木村攝津守」、艦長には軍艦操練教授方「勝麟太郎」が任命された。ちなみに通弁方には中浜万次郎(ジョン・万次郎)、木村攝津守の従者として福沢諭吉がいた。
咸臨丸には96名が乗船したが、その中に日本近海で難船し保護を受けていた米国測量船「フェニミア・クーパー号」の乗組員11名がいた。
万延元年1月13日、出航し37日間でサンフランシスコに到着している。航海中、太平洋は連日の悪天候で船の運用を先の米人乗組員にまかせきることもあったようだ。
慶応4年(1867)8月19日、榎本武揚率いる幕府艦隊の輸送船として参加し函館にむかったが,鹿島灘で暴風雨に遭遇し、清水港へ入った。
9月18日、新政府軍艦が無防備の咸臨丸を攻撃。白旗を上げて降伏意志を示したが無視され多くの乗員が死傷した。この時、新政府は犠牲者の埋葬を許さなかった。「野ざらしにしろ」という訳である。ところが、「仏に官軍も賊軍もあるか!」とばかりに処罰覚悟で遺体を全て埋葬した男がいる。”清水の次郎長”こと山本長五郎だった。
その後、咸臨丸は新政府の北海道開拓使等に利用されたが、明治4年(1871年)9月19日小樽に向かう途中、北海道木古内町沖で暴風雨により座礁、翌20日破砕され一生を終えた。

咸臨丸艦長「勝麟太郎(海舟)」
日本人初の太平洋横断を指揮した勝だが、航海中は、船酔いで自室にこもりっぱなしだったという。
福沢諭吉と少女→
サンフランシスコの写真館で撮られたもの。諭吉は帰りの船中でこの写真を仲間に披露し、くやしがらせたという。