箱根宿

箱根宿

「箱根の山は天下の険」と歌われた小田原・三島間の箱根八里は東海道随一の難所だった。峠越えを緩和するために小田原、三島の両宿から各50軒ずつ強制的に移住させて宿場を開き、関所を設けた。町の規模は小さかったものの"本陣"は東海道最多の6、"旅籠"は70前後あったらしい。

本陣とは、もともと戦陣における武将の陣営のことをいうが、住居が広く、使用人も多数いた宿を諸大名の参勤交代などにあてていた。それが定宿になり、本陣と呼ぶようになった。

箱根関所には、江戸口、京口の2箇所の門があり、明け六つ(日の出前)に開門し、暮れ六つ(日没後)に門を閉じた。「入り鉄砲、出女」を厳しく監視する関所を避けて通れば関所破りで、極刑はまぬがれない。

元禄十五(1702)年、関所の裏山を越えようとして"お玉"という娘が捕らえられた。江戸に奉公に出ていたが抜け出して故郷の南伊豆へ帰ろうとしていたらしい。関所手形を持ってないお玉は、関所破りという重罪を犯し獄門に処されてしまう。そのお玉の首を洗ったのが、「お玉ヶ池」だった。

この池はそれまで「那津奈可池」と呼ばれていたが、お玉を憐れんだ村人によって「お玉ヶ池」と呼ばれるようになったという。(お玉ヶ池の名前の由来には別の話もあるようです。)

関所破りは、広い箱根山中で容易に思えるが、周辺五箇所に脇関所があって面的な監視がおこなわれていたという。