明治4(1871)年11月12日、岩倉使節団は横浜港を出発。23日かけてサンフランシスコに到着した。
欧米を中心とした当時の国際社会の有様を見て国家建設の青写真を描こういうのが、この632日におよぶ大旅行の目的のひとつだった。
メンバーは岩倉具視を全権大使に副使として木戸孝允・大久保利通・伊藤博文など。これに実務官と60人近くの留学生で総勢100余名。その中には後に民権思想のリーダーとなる中江兆民・ルーズベルト大統領の学友となって日露講和に貢献する金子賢太郎などがいた。
さらに異色なのは女子教育が大切だとして5人の少女を同行させたことだ。後に津田塾大学を創設する津田梅はわずか7才だった。
出発の際、上の写真の通り岩倉だけが断髪をしておらず、和服で渡米している。皇族の岩倉は早くから断髪した薩長の大臣達とは違って”ちょんまげ”には随分と固執していたようだ。
岩倉が断髪を決意したのは到着したサンフランシスコからワシントンに向けて大陸横断中のシカゴでのことらしく、子息らに説得され「全権大使がこれでは日本全体が未開で野蛮な後進国と見なされることを怖れたから」というのが理由のようだ。
○半髪頭をたたいてみれば因循姑息の音がする
○惣髪頭をたたいてみれば王政復古の音がする
○ジャンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする
※半髪(はんぱつ)頭とは月代を剃った昔ながらのちょんまげ。惣髪(そうはつ=総髪)頭は月代を剃らずに後ろへなでつけたもの。ジャンギリ頭はザンギリ頭とも呼び、散切りあるいは斬切りとも書いた。
明治新政府は約300年続いた封建制度を払拭し日本のおくれを取り戻すため、日本古来の風俗や制度を西洋化する政策を推し進め、その一環として明治4年8月9日、次のような太政官布を発布した。
散髪制服略服脱刀共可為勝手事、但、禮服ノ節ハ帯刀可致事
これが、一般に「散髪脱刀勝手令」(断髪令)といわれるもので、文面上は命令ではないが、少なからず強制力を持っていたようだ。
この「断髪令」が布告される3ヵ月前に先の俗謡が新聞に掲載され流行した。これは新政府の木戸孝允が新聞の果たす役割が大きいことに着目し掲載させたもので、文明開化にザンギリ頭が欠くことのできないものであるという観念を国民に植え付けようとしたもの。
「文明開化の音がする」といえば聞こえはいい。だが”ザンギリ頭”にはもともと根強い偏見があった。いがぐり頭の願人坊主、すなわち物乞いを思い浮かべる。あるいは牢屋敷で罪人にかかる仕事に従事する連中の頭髪だった。好まれるどころか、むしろ嫌われていた。
明治6年3月20日には明治天皇が断髪され、これが新聞で報道されるに至って民衆の断髪が加速したようだ。ちょんまげ姿を遺しておこうと写真館には長蛇の列ができたという。ちなみに皇后はその月の3日に旧習のお歯黒や眉墨を落としていた。
しかし政府や県の断髪奨励の努力にもかかわらず長年、民衆に染み込んだ”髷(まげ)”という風習には根強いものがあり、断髪に抵抗した者も少なくなかった。当時の日本人にとっては髷は魂も同然。断髪を強要された民衆は一揆を起こしたり、断髪頭は気味悪いと各地で離婚騒動が起こった。
そこで、ある地方自治体では強制的に、あるいは「髷税」「髪税」と称して税金を徴収する方法を採用した。こうした施策のかいもあって明治22年頃にはほとんどの者が断髪したそうだ。
■補足
ちょんまげ(丁髷)
現代では”髷”と”ちょんまげ”は同義語として使われることが多いが本来は額髪を広くそりあげ髻(もとどり=頭髪を束ねたもの)を前面に向けて曲げたもの。老人の頭に多く用いられた江戸時代の髪型の一つ。それは髪が少ないために、大きな髷を結うことができなかったからといわれる。「つぶ一」ともいわれる。「ちょんまげ」の「ちょん」の由来は、言葉の意味が「ほんの少し」であり、結った形が「ゝ」に似ているから、と言われている
月代(さかやき)(つきしろ)
応仁の乱以後、武士が冑(かぶと)を付けたとき、頭ののぼせを防ぐために髪をそったことから逆気(さかいき)の転じたものという説が一般的。月代にもお国風があって薩摩武士はこめかみの辺りから広く剃っていたが、土佐武士は指二本位の広さだった。後藤象二郎、武市半平太の画像を見るとよくわかる。龍馬の写真はどれも総髪だがこれは浪人の自由さで土佐本藩で総髪は許されなかった。